・・・舟の波のうちに隠見するもの三、四。これに鴎が飛んでいたと書けば都合よけれども飛魚一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。甲の浦沖を過ぐと云う頃ハ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・惆悵として盃を傾くる事二度び三度び。唯見ればお妾は新しい手拭をば撫付けたばかりの髪の上にかけ、下女まかせにはして置けない白魚か何かの料理を拵えるため台所の板の間に膝をついて頻に七輪の下をば渋団扇であおいでいる。七 何たる物哀・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 圏内の競争が烈しくなるか、圏外の競争が烈しくなるか、どちらに傾くかは、読書界の傾向で大部きめられる問題であります。もし読書界が把住性が強くって、在来の作物からなお或物を予期しつつある間は、圏内の競争の方が烈しい。また読書界が推移性に支・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
・・・退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程の鬨を作る。寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワル・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・それには無論下地があったので、いわば、子供の時から有る一種の芸術上の趣味が、露文学に依って油をさされて自然に発展して来たので、それと一方、志士肌の齎した慷慨熱――この二つの傾向が、当初のうちはどちらに傾くともなく、殆ど平行して進んでいた。が・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・列のなかには派手なマフラーをした若い女のひともいたりして、傘が傾くと、別に連れもないらしい白い顔がぽつねんと見える。まだ切符は売り出していないのであった。 その時間からは、「女人哀愁」というのとニュースとが見られるわけである。私は特別に・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・朽木の屋台にたった一本、いくらかは精のある材木が加えられたところで、その大屋の傾くことを支え切れるものではない。腐れ屋台につがれた細い材木が共に倒れて裂かれないことを願うのは多くの人の心持である。 アメリカから教育に関する専門家たちが大・・・ 宮本百合子 「女の手帖」
・・・その特殊な環境の作用からある意味での貴族主義、ひろい目から見るとある意味での独善に傾く危険がなくは無い。大多数の女のひとの今日の生活は逼迫の度を加えられていることは実に明らかなのですから。サラリーマンの妻としての暮しにおいても、サラリー・ウ・・・ 宮本百合子 「現実の道」
・・・ 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭が鳴った。鞭が鳴った。 眼の大きなかの一疋の蠅は・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫