・・・曇天にこぞった若葉の梢、その向うに続いた鼠色の校舎、そのまた向うに薄光った入江、――何もかもどこか汗ばんだ、もの憂い静かさに沈んでいる。 保吉は巻煙草を思い出した。が、たちまち物売りに竹箆返しを食わせた後、すっかり巻煙草を買うことを忘れ・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ かかる群集の動揺む下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまに鯊が釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく彎曲しつつ、伸々と静まり返って、その癖底光のする歯の土手を見せて、冷笑う。 赤帽の言葉を善意に解するにつけても、い・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・海から細く入江になっていて、伝馬や艀がひしひしと舳を並べた。小揚人足が賑かな節を合せて、船から米俵のような物を河岸倉へ運びこんでいる。晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者も・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。 海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。その蔭にちょっぴり人家の屋根が覗いている。そして入江には舟が舫ってい・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも稀に、櫓こぐにも酒の勢いならでは歌わず、醍醐の入江を夕月の光砕きつつ朗らかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず、妻失いしことは元気よかりし彼が心をなかば砕・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・叔父の家は丘のふもとにあり、近郊には樹林多く、川あり泉あり池あり、そしてほど遠からぬ所に瀬戸内内海の入江がある。山にも野にも林にも谷にも海にも川にも、僕は不自由をしなかったのである。 ところが十二の時と記憶する、徳二郎という下男がある日・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 評議の事定まりけん、童らは思い思いに波打ぎわを駈けめぐりはじめぬ。入江の端より端へと、おのがじし、見るが間に分れ散れり。潮遠く引きさりしあとに残るは朽ちたる板、縁欠けたる椀、竹の片、木の片、柄の折れし柄杓などのいろいろ、皆な一昨日の夜・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・山はあるところでは急激な崖になって海に這入り、又あるところは山と山との間の谷間が平かになって入江を形づくり部落と段々畑になった耕地がある。そして島の周囲には、いくつかのより小さい岩の島がある。 私はしかし、小さい頃から和やかな瀬戸内海の・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
その一 八年まえに亡くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変っているようである。いや、変調子というのではなく、案外そのような暮しかたのほうが正しいので、かえって私ども一般の家庭の・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・裏の入江の船の船頭が禿頭を夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向かってどなっている。その子供の群れの中にかれもいた。 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫