・・・ 五尺八寸、十三貫、すなわち痩せているせいで暑さに強い私は、裸で夜をすごすということは余りなく、どんなに暑くてもきちんと浴衣をきて、机の前に坐っているのだが、八月にはいって間もなくの夜明けには、もう浴衣では肌寒い。ひとびとが宵の寝苦しい・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 生れた時のことはむろんおぼえはなかったが、何でも母親の胎内に八月しかいなかったらしい。いわゆる月足らずで、世間にありがちな生れだったけれど、よりによって生れる十月ほど前、落語家の父が九州巡業に出かけて、一月あまり家をあけていたことがあ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・その癖もう八月に入ってるというのに、一向花が咲かなかった。 いよ/\敷金切れ、滞納四ヵ月という処から家主との関係が断絶して、三百がやって来るようになってからも、もう一月程も経っていた。彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕まで・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 昨年の八月義母に死なれて、父は身辺いっさいのことを自分の手で処理して十一月に出てきて弟たちといっしょに暮すことになったのだが、ようよう半年余り過されただけで、義母の一周忌も待たず骨になって送られることになったのだった。実の母が死んです・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 雨 八月も終わりになった。 信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。指の傷が癒ったので、天理様へ御礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。その人がこの近所では最も熱心な信者・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ けれどもまず平穏無事に日が経ちますうち、ちょうど八月の中ごろの馬鹿に熱い日の晩でございます、長屋の者はみんな外に出て涼んでいましたが私だけは前の晩寝冷えをしたので身体の具合が悪く、宵から戸を閉めて床に就きました。なんでも十時ごろまで外・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ ワーシカは、夜が短い白夜を警戒した。涼しかった。黒竜江の濁った流れを見ながら、大またに、のしのしと行ったりきたりするのは、いい気持のものだ。 八月に入って、密輸入者はどうしたのか、ふッと一人も発見されなくなった。「しかし、これで油・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・三十八年八月には、堺利彦の訳になるトルストイの日露戦争反対論が掲げられている。 かゝる事実は、この戦争が如何なる意義を持っていたかを説明する材料の一つとなり得るものであるが、当時の戦争文学には、田山花袋の「一兵卒」にも、際物的に簇出した・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
八月六日、知々夫の郡へと心ざして立出ず。年月隅田の川のほとりに住めるものから、いつぞはこの川の出ずるところをも究め、武蔵禰乃乎美禰と古の人の詠みけんあたりの山々をも見んなど思いしことの数次なりしが、ある時は須田の堤の上、あ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 八月のことで、短か夜を寝惜むようなお新はまだよく眠っていた。おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。「漸く来た。」 ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫