・・・坪内雄蔵先生のところへそれを持ってゆくことになり、『中央公論』の瀧田樗蔭に会うことになり、少しちぢめて九月の『中央公論』に載せられた。薄謝と書いた紙包に百五十円入っていた。女子大は一学期でやめていた。一九一七年「日は・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・『婦人戦旗』の読者はもちろんのこと、『婦人公論』や『主婦之友』などの読者も、一人のこさずよむべき雑誌です。 仲間同士で、みんな読むよう、すすめ合おう! そして、われわれの力で『働く婦人』を素晴らしいものに守りたてて行こうではありませ・・・ 宮本百合子 「発刊の言葉」
・・・ 十月号の婦人公論であったか、千葉亀雄氏が、婦人と読書のことについて書いておられた。その文章で、婦人がたとえばイギリスのような国でもどんなに扱われていたかという実例に、ジェーン・オウスティンがあのような傑作をかくに仕事部屋を持っていなか・・・ 宮本百合子 「夫婦が作家である場合」
・・・中央公論社は小説を出して儲けて社会的の一つの機会を与えただけで後はそのままです。野沢富美子さんの「煉瓦女工」はこの頃になって映画にもなっているけれども、第一公論社は野沢さんを食ったような所があります。そういう風にして、立派な才能、或はよくな・・・ 宮本百合子 「婦人の創造力」
・・・第一次のヨーロッパ大戦の前後、日本にはじめて職業婦人というものがあらわれ、婦人の社会的な自覚が一般の念頭に燃えたころ、中央公論社は、『中央公論』の姉妹として『婦人公論』を、改造社は『女性改造』を発刊して、婦人の向上のために役立とうとした。『・・・ 宮本百合子 「婦人の読書」
・・・万機公論に決すべし、という五ヵ条の誓文は、自由党という政党を弾圧し、言論取しまりの警察法をつくって、そのあとからあらわれた。明治開化で士族平民の別なく人おのおのその志をのぶべし、という理想は実現するにあまり遠かった。 けれども、徳川の封・・・ 宮本百合子 「平和への荷役」
・・・を最後に附記されている『婦人公論』編集部宛の長瀬澄江さんのことばまでとおしてよんだとき、その手紙と本文の文章とのあいだに、切なさとはこういうものと思わせずにいないすすり泣きと、それをこらえて笑っている若い女の人々の肩のふるえを感じる。三回の・・・ 宮本百合子 「「未亡人の手記」選後評」
・・・ 杉山平助氏の『婦人公論』における恋愛論は、ジャーナリストとしての技術を傾けて書かれているものであるが、中に短く引用されている加賀耿二氏の文章がある。「労働者に恋愛などという高尚なものはない。あるのは『おい、どうだい?』ばかりである」云・・・ 宮本百合子 「もう少しの親切を」
・・・東京の新聞やあると求むるに、二日前の朝野新聞と東京公論とありき。ここにも小説は家ごとに読めり。借りてみるに南翠外史の作、涙香小史の翻訳などなり。 二十三日、家のあるじに伴われて、牛の牢という渓間にゆく。げに此流には魚栖まずというもことわ・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫