・・・だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るような冷酷な眼で眺めていた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ 無情冷酷……しかも横柄な駅員の態度である。精神興奮してる自分は、癪に障って堪らなくなった。 君たちいったいどこの国の役人か、この洪水が目に入らないのか。多くの同胞が大水害に泣いてるのを何と見てるか。 ほとんど口の先まで出たけれ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・再び動くということなき永久の静かさは、実に冷酷のきわみである。 永久なる眠りも冷酷なる静かさも、なおこのままわが目にとどめ置くことができるならば、千重の嘆きに幾分の慰藉はあるわけなれど、残酷にして浅薄な人間は、それらの希望に何の工夫を費・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 冷酷にも、こんなことまでいいました。 子供はなんといわれても、これにたいして怒ることもできずに、爺の手を引いて町の中を戸ごとにたたずみながら歩いてゆきました。そしてある店の前に立っていると、その店の主人はまた、「なんでそこにぐ・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・多くの社会政策なるものがやはり、こんなようなもので、多くの人の気付くところには、何等かの対策もするが、人々の気付かないところには、犠牲者を冷酷に看過するといっていゝのです。 私達が、これまでの政治に対して、あきたらないものは、こゝに理由・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・ こうした涙ぐましい、謙譲にして真摯の芸術こそ、今日のような虚偽と冷酷と圧迫と犠牲とを何とも思っていない時代によって、まさしく正しい人々の胸に革新の火を燃やさずには措かないのである。トルストイの芸術がやはりそれだと思うのであります。・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・まして私たちが実存主義作家などというレッテルを貼られるとすれば、むしろ周章狼狽するか、大袈裟なことをいうな、日本では抒情詩人の荷風でもペシミズムの冷酷な作家で通るのだから、随分大袈裟だねと苦笑せざるを得ない。だいいち、日本には実存主義哲学な・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ しかし、これとても全然はなからの計画ではなく、冷酷といってしまえばそれまでだが、敢えて「あばく」に足るほどのことでもなかった。同じ「あばく」なら、書き洩らしたところに、もっと効果的な材料があった筈だ。 すなわち、成績のわるい支店の・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ そのような庄之助の冷酷さを見ると、さすがの礼子も、寿子にふと同情の念を催すくらいであった。「しかし、寿子も寿子だ」 と、礼子はまた思った。今夜はもうこの位で勘弁してくれと、頼めばよさそうなものだのに、頑として蚊帳の外に頑張って・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・上等兵の表情には、これまで、病院で世話になったことのないあかの他人であるような意地悪く冷酷なところがあった。 こういう態度の豹変は憲兵や警官にはあり勝ちなことだ。憲兵や警官のみならず、人間にはそういう頼りにならぬ一面が得てありがちなこと・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫