・・・ある切ない塊が胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。それが鎮まると堯はまた歩き出した。 何が彼を駆るのか。それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。 彼の一日は低地を距てた灰色・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
上 鳥が其巣を焚かれ、獣が其窟をくつがえされた時は何様なる。 悲しい声も能くは立てず、うつろな眼は意味無く動くまでで、鳥は篠むらや草むらに首を突込み、ただ暁の天を切ない心に待焦るるであろう。獣は所謂駭き心になって急に奔ったり・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつきを考えて悩ましく思った。婆やが来てそこへ寝床を敷いてくれる頃には、深い秋雨の戸の外を通り過ぎ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・雪に対する日ましにつのるこの切ない思慕の念は、どうしたことであろう。私が十日ほど名を借りたかの新進作家は、いまや、ますます文運隆々とさかえて、おしもおされもせぬ大作家になっているのであるが、私は、――大作家になるにふさわしき、殺人という立派・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・、ごぞんじ無いのだ、と私は苦しさを胸一つにおさめて、けれども、その事実を知ってしまってからは、なおのこと妹が可哀そうで、いろいろ奇怪な空想も浮んで、私自身、胸がうずくような、甘酸っぱい、それは、いやな切ない思いで、あのような苦しみは、年ごろ・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・みんなに揶揄われる度に切ない情がこみあげて来てそうして又胸がせいせいとした。其秋からげっそりと寂しいマチが彼の心に反覆された。威勢のいい赤は依然として太十にじゃれついて居た。太十は数年来西瓜を作ることを継続し来った。彼はマチの小遣を稼ぎ出す・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・堪えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。 そのうちに頭が変になった・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・うう、こわいこわい。おれは地獄行きのマラソンをやったのだ。うう、切ない。」といいながらとうとう焦げて死んでしまいました。 * なるほどそうしてみると三人とも地獄行きのマラソン競争をしていたのです。・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・これからはこんな切ないことはありません。」 楢夫が息をはずませながら、ようやく起き上って云いました。「ここはどこだい。そして、今頃お日さまがあんな空のまん中にお出でになるなんて、おかしいじゃないか。」 大将が申しました。「い・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・これらの立場は女としてはた目にも切ない。婦人代議士たちは代議士になってみて、今更切実に、既成政党が婦人代議士に求めていたものは、宣伝の色どりであって、実質的な政治への参加でもなければ、婦人の社会的、政治的成長でもなかったことを知らされている・・・ 宮本百合子 「一票の教訓」
出典:青空文庫