・・・ それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後にして旅に上ったのは。忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残りを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色も後ろになった・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・…… 宵の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半を掛けて積もりました。山の、猪、兎が慌てます。猟はこういう時だと、夜更けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端で茶漬を掻っ食らって、手製の猿の皮の毛頭巾を被った。筵の戸口・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・十一月の上旬といえば早や山々へは初雪が来た。そして暗く寂しい雪空に、日のめを仰ぐことも稀な頃になると浅間のけぶりも隠れて見えなかった。千曲川の流れですら氷に閉された。私の周囲には降りつもる深い溶けない一面の雪があるばかりであった。その雪は私・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・ 白いもののちらちら入口の土間へ舞いこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。初雪だ! と夢心地ながらうきうきした。 疼痛。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。「阿呆」 スワは短く叫・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。思い出の暗い花が、ぱらぱら躍って、整理は至難であった。また、無理にこさえて八景にまとめるのも、げびた事だと思った。そのうちに私は、この・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命に・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・天気がよすぎて私の眼はまくまくで、一入ものがみえないけれど、起きたらお手紙が来ていたし、寿江子からもきていて、あの人も初雪と一緒にやっと峠を越して、同時に宿屋にオルガンのあるのをみつけてすっかり元気をとり戻し、「悪夢からさめたよう」だそうで・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・私は東京へ、今年の初雪を知らせてやる。手紙の中へ、「私は今何故、こんな時に、こんな処へ来たかと、自分の物ずきな心がうらめしい。寒には堪えられても、口に云えないこの淋しさには、到底打ち勝てそうにもない気がします。 まあ考えても御覧・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫