・・・この豚存外に心利きたる奴にて甲斐々々しく何かと世話しくれたり。間もなく駆け来る列車の一隅に座を構えて煙草取り出せばベルの音忙しく合図の呼子。汽笛の声。熱田の八剣森陰より伏し拝みてセメント会社の煙突に白湾子と焼芋かじりながらこのあたりを徘徊せ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 熱で渇いた口に薫りの高い振出しをのませ、腹のへったものの前に気の利いた膳をすえ、仕事に疲れたものに一夕の軽妙なレビューを見せてこそ利き目はあるであろう。 雑誌や新聞ならば読みたいものだけ読んで読みたくないものは読まなければよいので・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・いや兎角く此道ではブレーキが利きにくいものだ。 だが、私は同時に、これと併行した外の考え方もしていた。 彼女は熱い鉄板の上に転がった蝋燭のように瘠せていた。未だ年にすれば沢山ある筈の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒のよう・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」「いや、話したろう。幾たびも話・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ お君位の時には、まだ田舎に居て、東京の、トの字も知らなかったくせに、今ではもうすっかり生粋の江戸っ子ぶって、口の利き様でも、物のあつかい様でもいやに、さばけた様な振りをして居る癖に、西の人特有の、勘定高い性質は、年を取る毎にはげし・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 口を利きながら、彼は持っている半紙大の紙へ頻りに筆を動かした。「なあに」「――ふむ」 やがて、「どう? 一寸似ているだろう」 彼が持って来たのを見ると、それは大神楽に見とれていたなほ子のスケッチであった。横を向いて・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・それは、仏像拝観に訪ねた私たちを案内したりもてなしたりしてくれる僧侶が、大概ごく若いのにまるで大人ぶり、それも一人前の坊さんぶるのではない軽薄な美術批評家ぶって、小癪な口を利き立てる淋しさである。やっと十九か二十ぐらいの、修業ざかりと思われ・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・ 気は利きそうであった。 女を置いて帰って行く時、給金はどうでも好いが、 家柄も相当でございますから嫁にもあんまりな所へやりたくないって申して居りますから少しずつは進歩して行く様に御心がけ下さって。と云って行った。・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・まだいかにも兵隊帰りの様子をして居て歩くのでも、口の利きかたでも「…………終り」と云いたげな風である。「そうであります。と云うのがいやに耳ざわりに聞えた。辛かった事、面白かった事を細々かぞえたてて話したのが祖母には耳珍らしく・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・しかし、新鮮な空気の利きめは彼女が自分の目で見、その手で開けた窓々からスクータリーへ導き入れたのである。新鮮な空気が必要なのに、窓を密閉していたとき、それを開放した彼女の方法は貴重であった。けれども、気温が全くちがい、暑さの全く違うインドで・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫