・・・こう云う生活欲に駆られていた彼は勿論原稿料の前借をしたり、父母兄弟に世話を焼かせたりした。それでもまだ金の足りない時には赤い色硝子の軒燈を出した、人出入の少い土蔵造りの家へ大きい画集などを預けることにした。が、前借の見込みも絶え、父母兄弟と・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 僕は又中央公論社から原稿料を前借する為に時々滝田君を煩わした。何でも始めに前借したのは十円前後の金だったであろう。僕はその金にも困った揚句、確か夜の八時頃に滝田君の旧宅を尋ねて行った。滝田君の旧居は西片町から菊坂へ下りる横町にあった。・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎氏」
・・・雑穀屋からは、燕麦が売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、賭場に出かけた。 競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・つねに明日の希望があるところが競馬のありがたさだと言っていた作家も、六日目にはもう印税や稿料の前借がきかなくなったのか、とうとう姿を見せなかった。が、寺田だけは高利貸の金を借りてやって来た。七日目はセルの着物に下駄ばきで来た。洋服を質入れし・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・お披露目をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀、衣裳、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主が出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛る勘定になると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境に・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 小僧は前借で行っていた埼玉在の紡績会社を逃げだしてきたのだ。小僧は、「あまり労働が辛いから……」という言葉に力を入れて繰返した。そして途中乞食をしながら、ほとんど二十日余りもかかって福島まで歩いてきたのだが、この先きは雪が積っていて歩・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい木葉を拾って来ても間に合うが、明日食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の代に力のない嘆息を洩した。頭髪を乱して、血の色のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・川岸女郎になる気で台湾へ行くのアいいけれど、前借で若干銭か取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想の尽きる仕義だ。「そんな事をいってどうするんだエ。「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体になって寝ているばかりヨ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・を書き上げて、その印税の前借をして私たちはとうとう津軽の生家へ来てしまった。 甲府で二度目の災害を被り、行くところが無くなって、私たち親子四人は津軽に向って出発したのだが、それからたっぷり四昼夜かかってようやくの事で津軽の生家にたどりつ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・この作品は三百枚くらいで完成する筈であるが、雑誌に分載するような事はせず、いきなり単行本として或る出版社から発売される事になっているので、すでに少からぬ金額の前借もしてしまっているのであるから、この原稿は、もはや私のものではないのだ。けれど・・・ 太宰治 「鉄面皮」
出典:青空文庫