・・・ すると梯子の上り口には、もう眼の悪い浅川の叔母が、前屈みの上半身を現わしていた。「おや、昼寝かえ。」 洋一はそう云う叔母の言葉に、かすかな皮肉を感じながら、自分の座蒲団を向うへ直した。が、叔母はそれは敷かずに、机の側へ腰を据え・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 三味線背負った乞食坊主が、引掻くようにもぞもぞと肩を揺ると、一眼ひたと盲いた、眇の青ぶくれの面を向けて、こう、引傾って、熟と紫玉のその状を視ると、肩を抽いた杖の尖が、一度胸へ引込んで、前屈みに、よたりと立った。 杖を径に突立て突立・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 何故かは知らぬが、この船にでも乗って助かろうと、片手を舷に添えて、あわただしく擦上ろうとする、足が砂を離れて空にかかり、胸が前屈みになって、がっくり俯向いた目に、船底に銀のような水が溜って居るのを見た。 思わずあッといって失望した・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 老人はそのがっしりした体で、ごつごつした頭を前屈みにして、両足で広く地面を踏んで立って、青年の顔を見詰めている。思い掛けない事なので、呆れて目をいて、丁度電にでも撃たれたように、両腕を物を防ぐような形に高く上げて一歩引き下がった。そし・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・竹村君は前屈みになって硝子箱の中に並べたまじょりか皿をあれかこれかと物色しているが、頭の上の瓦斯の光は薄汚い鼠色の襟巻を隠す所もなく照らしている。元気よく小僧を呼んで、手に取り上げた一枚の皿と五円札とをつき出すと、小僧は有難うといって竹村君・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・ハンドルは坐席に合わせてまるで低いところについているから、美人は愛嬌よい顔をこちらに向けつつも背中は痛々しい程の前屈みになっている。 だが、私は妻としての感情から、妻としてのこのエハガキをよんだ時母の心に何か戸惑いを生じたであろう瞬・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・ 綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹のように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・地味な縞の、鈍い、薄青い色の勝った何やらの単物に袴を着けて、少し前屈みになって据わっている。徹夜をした人の目のように、軽い充血の痕の見えている目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵直前の方向を凝視している。この男の傍には、少し背後へ下が・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫