・・・暗い幌のなかの乗客の眼がみな一様に前方を見詰めている事や、泥除け、それからステップの上へまで溢れた荷物を麻繩が車体へ縛りつけている恰好や――そんな一種の物ものしい特徴で、彼らが今から上り三里下り三里の峠を踰えて半島の南端の港へ十一里の道をゆ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・しかし前方の闇はそのためになおいっそう暗くなり街道を呑み込んでしまう。 ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背に・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・二人は常に、前方と左右とに眼を配って行かなければならなかった。報告に、息せき息せき引っかえすたびに、中隊長は、不満げに、腹立たしそうな声で何か欠点を見つけてどなりつけた。 雪の上に腰を落して休んでいた武石は、「まだ交代さしてくれんの・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・彼等は、本隊から約一里前方へ出て行くのである。 樹木は、そこ、ここにポツリ/\とたまにしか見られなかった。山もなかった。緩慢な丘陵や、沼地や、高粱の切株が残っている畠があった。彼等は、そこを進んだ。いつのまにか、本隊のいる部落は、赭土の・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・そして尻をしたたかにぶん殴られたように前方へ驀進した。隊長は、辷り落ちそうになりながら、「おォ、おォ、おォ!」と悲しげな声を出した。「誰れか来て呉れい!」彼は、おおかた、口に出して、それを叫ぼうとした。 左側の樅やえぞ松があ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ガタンガタンという音が前方の方から順次に聞えてきて、列車が動きだした。そうなってしまうと、今度はハッキリ自家へ真直に帰らなかったことが、たまらなく悔いられた。取り返しのつかないことのように考えられた。龍介は停車場の前まで戻ってきてみた。待合・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。 何かしなければならぬ。 釣。 将棋。 そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのだかどうだか、それは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・見よ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い興じている。声がここまで聞えて来る。「なかなか」お巡りは、うんと力こめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」「そうです・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・そしてイからウに至る間に唇は順に前方に突き出て行くものとする。また唇の開きはイからアまで増し、アからウへ向ってまた減ずると仮定する。 今唇の前後の方向の位置をXで表わし、唇の開きをYで表わすとるると、イエアオウと順に発音する場合にXYで・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・風にゆれる野の草がさながら炎のように揺れて前方の小高い丘の丸山のほうへなびいて行く、その行く手の空には一団の綿雲が隆々と勢いよく盛り上がっている。あたかも沸き上がり燃え上がる大地の精気が空へ空へと集注して天上ワルハラの殿堂に流れ込んでいるよ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫