・・・途方に暮れたのは新蔵で、しばらくはただお敏の背をさすりながら、叱ったり励ましたりしていたものの、さてあのお島婆さんを向うにまわして、どうすれば無事に二人の恋を遂げる事が出来るかと云うと、残念ながら勝算は到底ないと云わなければなりません。が、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・動ともするとおびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように威丈高にのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取ったばかりのようなこの男を見送った。 やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固なのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。 お前たちは去年・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・父が自分の仕事や家のことなどで心配したり当惑したりするような場合に、母がそれを励まし助けたことがしばしばあった。後に母の母が同棲するようになってからは、その感化によって浄土真宗に入って信仰が定まると、外貌が一変して我意のない思い切りのいい、・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。夜になっても・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と、ケーは独り言をして、自分で気を励ましました。 けれど、それは、ちょうど麻酔薬をかがされたときのように、体がだんだんしびれてきました。そして、もうすこしでもこうしていることができなくなったほど、眠くなってきましたので、ケーはついに・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・あるときは風のために思わぬ方向へ船が吹き流され、あるときは波に揺られて危うく命を助かり、幾月も幾月も海の上に漂っていましたが、ついにある日のこと、はるかの波間に島が見えたので大いに喜び、心を励ましました。 その家来は島に上がりますと、思・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・そう励ました。 剃刀屋で三月ほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩して癪やからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真だと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。蝶子は一層ヤトナ稼業に身を入れた。彼女だけに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・と、私はムッとして声を励まして言ったが、多少図星を指された気がした。「それではとにかく行李を詰めましょうか」と、弟はおとなしく起って、次ぎの室の押入れからFの行李を出してきた。 学校へはきゅうに郷里に不幸ができて帰ることになったから・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・それを母が励まして絶頂の茶屋に休んで峠餅とか言いまして茶屋の婆が一人ぎめの名物を喰わしてもらうのを楽しみに、また一呼吸の勇気を出しました。峠を越して半ほどまで来ると、すぐ下に叔母の村里が見えます、春さきは狭い谷々に霞がたなびいて画のようでご・・・ 国木田独歩 「女難」
出典:青空文庫