・・・こんな不安も吉田がその夜を睡むる当てさえあればなんの苦痛でもないので、苦しいのはただ自分が昼にも夜にも睡眠ということを勘定に入れることができないということだった。吉田は胸のなかがどうにかして和らんで来るまでは否でも応でもいつも身体を鯱硬張ら・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・でもね、日曜は兵が遊びに来るし、それに矢張上に立てば酒位飲まして返すからね自然と私共も忙がしくなる勘定サ。軍人はどうしても景気が可いね」「そうですかね」と自分は気の無い挨拶をしたので、母は愈々気色ばみ。「だってそうじゃないかお前、今・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・一ちょうの豆腐を十五銭に勘定した。ロシア人の馬車を使って、五割の頭をはねた。女郎屋のおやじになった。森林の利権を買って、それをまた会社へ鞘を取って売りつけた。日本軍が撤退すると、サヴエート同盟の経済力は、シベリアにおいても復旧した。社会主義・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・彼女はやがて金目を空で勘定しながら、反物を風呂敷に包んだ。「友吉にゃ、何を買うてやるんだ。」清吉は眼をつむったまゝきいた。「コール天の足袋。」「そうか。」と、彼はつむっていた眼を開けた。 妻は風呂敷包みを持って、寂しそうに再・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・かくの如き馬琴が書きましたるところの著述は、些細なものまでを勘定すれば百部二百部ではきかぬのでありますが、その中で髄脳であり延髄であり脊髄であるところの著述は、皆当時の実社会に対して直接な関係は有して居りませぬので、皆異なった時代――足利時・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・彼女は自分でも金銭の勘定に拙いことや、それがまた自分の弱点だということを思わないではなかったが、しかしそれをいかんともすることが出来なかった。唯、心細くばかりあった。いつまでも処女で年ばかり取って行くようなお新の前途が案じられてならなかった・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・右の手で絶えず貨幣をいじって勘定している。そして白い、短い眉毛の下の大きな、どんよりした、青い目で連の方を見ている。老人は直ぐ前を行く二人の肘の間から、その前を行く一人一人の男等を丁寧に眺めている。その歩き付きを見る。その靴や着物の値ぶみを・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・宿屋の勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも十分に支払うことが出来ましたけれど、友人達に帰りの切符を買ってやったら、あと、五十銭も残りませんでした。「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・あとで一しょに勘定して貰うから。」 襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。「旦那。お忘れ物が。」車掌があとからこう云った。 おれは聞えない振りをして、ずんずん・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫