・・・ 房々と白い花房を垂れ、日向でほのかに匂う三月の白藤の花の姿は、その後間もなく時代的な波瀾の裡におかれた私たち夫婦の生活の首途に、今も清々として薫っている。 その時分、古田中さんのお住居は、青山師範の裏にあたるところにあった。ある夏・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・きょう、塀そとを通る私たちに見えるものは、昔ながらの丸善工場のインクの匂う門のあたりに、繁った古い樫の梢ばかりである。 その時分、この辺にほんとに、からたちの垣根が沢山あった。松平の空地をめぐって、からたち垣があるばかりでなく、その斜向・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ しめりはじめた草むらが匂う道を歩きながら牧子がきいた。「よくって云えるかどうかしらないけれど――なあぜ?」「たしか、瀬川の御友達のかただったと思うんですけれど……わたしは御存じないんです」 きょうが目には見えない女と子供の・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・愛を表現しようとする心の望みが高まったとき、私たちはどうしてその熱情に応じて花咲き、匂う自身の肉体を否定したり、そこに獣を見たりしよう。人間の感能がこのように微妙に組織されており、機能がしかく精密であるということには、それにふさわしく複雑で・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
・・・彼女の美しさは、昔秀吉が恋着した母の美しさを匂うばかりの若さのうちに髣髴させた。年齢の相異や境遇の微妙さはふきとばして、彼女を寵愛した。錦に包まれて暮しながら、お茶々といった稚い時代から、彼女の心に根強く植付けられていた「猿面」秀吉に対する・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫