・・・耶蘇キリストは、万人の罪を一人で背負ひ、罪なくして十字架の上に死んだ。フリドリヒ・ニイチェもまた、近代知識人の苦悩を一人で背負つて、十字架の上に死んだ受難者である。耶蘇と同じく、ニイチェもまた自己が人類の殉教者であり、新時代の新しいキリスト・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・この燈火が照すと、己の部屋のがらくた道具が見える。これが己の求める物に達する真直な道を見る事の出来ない時、厭な間道を探し損なった記念品だ。この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿は定めて身に覚えがあろう。その疵のある象牙の足の下に身を倒して甘い・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・これは十字架上の耶蘇だと見えて首をうなだれて眼をつぶって居るが、それにもかかわらず頭の周囲には丸い御光が輝いて居る。耶蘇が首をあげて眼を開くと、面頬を著けた武者の顔と変った。その武者の顔をよくよく見て居る内に、それは面頬でなくて、口に呼吸器・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・そして、十字架を握った冷っこい手を子供の唇へ押しつけて、こわい声でいった。 ――お前、この世で一番偉い方は誰だか知っているか。 ――神さまです。 ――その次には? 子供は坊主の赤い鼻を見上げて機械的に答える。 ――ツァー・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・沼だ、そう思った時、コンクリート道がひろく一うねりして、眺望がひらけ、左手に気味わるく青いその沼と、そのふちの柵、沼になるまでの斜面に古い十字架がどっさりあって、そのいくつかが緑青色の水の中へこけかかっているのなどが見える。あとで訊くと、ザ・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・ブリューゲルの暗い、はげしい、気味わるい魅力にみちた諷刺画「十字架」の画面の描写からはじまって、ちょうど一九三七年ころの京大に、かろうじて存続していた学生運動のグループと、それに近づき接触しながら、一つになりきれずにさまざまの問題を感じてい・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。 ところでこの苦しむ神、蘇る神の物語は、『熊野の本地』には限らないのである。有名・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・彼女は己が踏む道の上にあって、十字架を負った人のように烈しくあえいだ。今にも倒れそうな危うい歩きようである。 風聞が伝わった。「彼女病めり。」 彼女はこの時より一層高いある者を慕い初めた。烈しい情熱の酔いごこちよりも、もっと高い芸術・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・一生を衆人救済と贖罪とに送って十字架に血を流したる主エスはわが主義の証明者である。要するに吾人は肉体を超越して宇宙の悲哀に恍惚たる心霊が雄壮に触れ真を憧憬し義に熱し愛に酔いて無我の境に入る時高潮に達する。Im Schnen, Im Gute・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫