・・・机の前には格子窓がある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋の前に、半天着の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙しそうな気がして不快だった。と云ってまた下へ下りて行くのも、やはり気が進まなかった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・婆さんはその薄暗の中に、半天の腰を屈めながら、ちょうど今何か白い獣を抱き上げている所だった。「猫かい?」「いえ、犬でございますよ。」 両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ。犬は婆さんに抱かれたまま、水々しい眼を動かし・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・――処へ、土地ところには聞馴れぬ、すずしい澄んだ女子の声が、男に交って、崖上の岨道から、巌角を、踏んず、縋りつ、桂井とかいてあるでしゅ、印半纏。」「おお、そか、この町の旅籠じゃよ。」「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……あまつさえ、目の赤い親仁や、襤褸半纏の漢等、俗に――云う腸拾いが、出刃庖丁を斜に構えて、この腸を切売する。 待て、我が食通のごときは、これに較ぶれば処女の膳であろう。 要するに、市、町の人は、挙って、手足のない、女の白い胴中を筒・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 木格子の中に硝子戸を入れた店の、仕事の道具は見透いたが、弟子の前垂も見えず、主人の平吉が半纏も見えぬ。 羽織の袖口両方が、胸にぐいと上るように両腕を組むと、身体に勢を入れて、つかつかと足を運んだ。 軒から直ぐに土間へ入って、横・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被した半纏着が一人、右側の廂が下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。 声も立てず往来留のその杙に並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしを・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 或る料理屋の女将が、小間物屋がばらふの櫛を売りに来た時、丁度半纏を着て居た。それで左手を支いて、くの字なりになって、右手を斜に高く挙げて、ばらふの櫛を取って、透かして見た。その容姿は似つかわしくて、何ともいえなかったが、また其の櫛の色・・・ 泉鏡花 「白い下地」
・・・樹立の暗くなった時、一度下して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの半纏を駕籠の屋根につけたのを、敷かせて、一枚。一枚、背中に当がって、情に包んでくれたのである。 見上ぐる山の巌膚から、清水は雨に滴って、底知れぬ谷暗く、風は梢に・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店の前に、雑貨らしい箱車を置いて休んでいた、半纏着の若い男は、軒の藤を潜りながら、向うから声を掛けた。「どこへ行くだ、辰さん。……長塚の工事は城を築くような騒ぎだぞ。」「まだ通・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・先刻のままで、洗いさらした銘仙の半纏を引掛けた。「先刻は。」「まあ、あなた。」「お目にかかったか。」「ええ、梅鉢寺の清水の処で、――あの、摩耶夫人様のお寺をおききなさいました。」 渠は冷い汗を流した。知らずに聞いた路なの・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
出典:青空文庫