一 僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好い。彼は叔父さんの家を出てから、本郷のある印刷屋の二階の六畳に間借りをしていた。階下の輪転機のまわり出す度にちょうど小蒸汽の船室の・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・当時の印刷局長得能良介は鵜飼老人と心易くしていたので、この噂を聞くと真面目になって心配し、印刷局へ自由勤めとして老人を聘して役目で縛りつけたので、結局この計画は中止となり、高橋の志道軒も頓挫してしまった。マジメに実行するツモリであったかドウ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・丁度印刷が出来て来た答礼の葉書の上書きを五人の店員が精々と書いていた。其間に広告屋が来る。呉服屋が来る。家具屋が来る。瓦斯会社が来る。交換局が来る。保険会社が来る。麦酒の箱が積まれる。薦被りが転がり込む。鮨や麺麭や菓子や煎餅が間断なしに持込・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・何人に配ったか知らぬが、僅に数回の面識しかない浅い交際の私の許へまで遣したのを見るとかなり多数の知人に配ったらしいが、新聞社を他へ譲渡すの止むを得ない事情を縷々と訴えたかなり長い手紙を印刷もせず代筆でもなく一々自筆で認めて何十通も配ったのは・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
はしがき この小冊子は、明治二十七年七月相州箱根駅において開設せられしキリスト教徒第六夏期学校において述べし余の講話を、同校委員諸子の承諾を得てここに印刷に附せしものなり。 事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれど・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 思うに、半分は、屑とされて消滅し、半分は、自然消滅に帰するものと考えられますが、その中、幾何良書として後世にまで残存するであろうか。印刷術と製本術とが、機械でされるようになって以来、生産の簡易化は、全く書物に対する考え方を変えてしまい・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・「お母さん、ほんとうでしょうか。ペスだったら、いいけど。」と、お姉さんは、いいました。「ペスだったら、うちで、飼ってやろうね。」と、正ちゃんがいいました。「印刷屋の犬じゃないか。」「だって、あすこでは、もうかまわないのだもの・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・官立第三高等学校第六十期生などと名刺に印刷している奴を見て、あほらしいより情けなかった。 入学して一月も経たぬうちに理由もなく応援団の者に撲られた。記念祭の日、赤い褌をしめて裸体で踊っている寄宿生の群れを見て、軽蔑のあまり涙が落ちた。ど・・・ 織田作之助 「雨」
・・・俥夫三年の間にちびちび溜めて来たというものの、もとより小資本で、発行部数も僅か三百、初号から三号までは、無料で配り、四号目には、もう印刷屋への払いが出来なかった。のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・執筆者へ渡す謝礼の金まで注ぎ込み、印刷屋への払いも馬券に変り、ノミ屋へ取られて行った。つねに明日の希望があるところが競馬のありがたさだと言っていた作家も、六日目にはもう印税や稿料の前借がきかなくなったのか、とうとう姿を見せなかった。が、寺田・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫