・・・けれども半之丞はどう言う目に遇っても、たいていは却って機嫌をとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅と「お」の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒ったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれど・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・が、それはいつの間にか却って親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、蔦は蔦である事を知ったように。 火星 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・変化は却ってその方に多い。雪に埋もれる六ヶ月は成程短いということは出来ない。もう雪も解け出しそうなものだといらいらしながら思う頃に、又空が雪を止度なく降らす時などは、心の腐るような気持になることがないではないけれど、一度春が訪れ出すと、その・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・こんな事を済ましたあとでは、あんな所へでも行くのが却って好いのだ。」「ええ。そうですねえ。お気晴らしになるかも知れませんわねえ。」こう云って、奥さんは夫に同意した。そして二人共気鬱が散じたような心持になった。 夫が出てしまうと、奥さ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・A 人は歌の形は小さくて不便だというが、おれは小さいから却って便利だと思っている。そうじゃないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・僕等の怖なった時に、却って平気なもんであった。軍曹が上官にしかられた時のうわつき方とは丸で違てた。気狂いは違たもんやて、はたから僕は思た。僕は、まだ、戦場におる気がせなんだんや。それが、敵に見られん様に、敵の刈り残した高黍畑の中を這う様にし・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ というが如きは、却って、其の親達の心事をば悲しまずにいられません。 かゝる無理な場合でも、子供は、母親に対し、不明な教師に対して、抗議する何等の力を持っていない。それ故に母親が自から改めなければ、強権の力を頼んでも試験勉強の如きを廃し・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・ある時は、それがために、子供を持たない人々を幸福なりとして、却って、羨むような場合もありました。 それでなくとも、いま自分が子供の親となり、子供に気を労するのを知ってから「怪我をしないことが、孝行の一つである」と、いう言葉の真意を見出さ・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
・・・われわれの国の固有の伝統と文明とは、東京よりも却って諸君の郷土に於て発見される。東京にあるものは、根柢の浅い外来の文化と、たかだか三百年来の江戸趣味の残滓に過ぎない。大体われ/\の文学が軽佻で薄っぺらなのは一に東京を中心とし、東京以外に文壇・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・鏡を見たり水差しを見たりするときに感じる、変に不思議なところへ運ばれて来たような気持は、却って淀んだ気持と悪く絡まったようであった。そんなことがなくてさえ昼頃まで夢をたくさん見ながら寝ている自分には、見た夢と現実とが時どき分明しなくなる悪く・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
出典:青空文庫