・・・「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・頭の鈍い人たちは、申し立つべき希望の端くれさえ持ち合わしてはいなかったし、才覚のある人たちは、めったなことはけっして口にしなかった。去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂わしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようと・・・ 有島武郎 「親子」
・・・B 君は何日か――あれは去年かな――おれと一緒に行って淫売屋から逃げ出した時もそんなことを言った。A そうだったかね。B 君はきっと早く死ぬ。もう少し気を広く持たなくちゃ可かんよ。一体君は余りアンビシャスだから可かん。何だって真・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途に窮するため、拳を握り、足を爪立てているのである。 いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米薪さえ覚束ない生活の悪処に臨んで、―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ とにかく去年から今年へかけての、種々の遭遇によって、僕はおおいに自分の修業未熟ということを心づかせられた。これによって君が僕をいままでわからずにおった幾部分かを解してくれれば満足である。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・へん、去年身投げをした芸者のような意気地なしではない。死んだッて、化けて出てやらア。高がお客商売の料理屋だ、今に見るがいい」と、吉弥はしきりに力んでいた。 僕は何にも知らない風で、かの女の口をつぐませると、それまでわくわくしていたお貞が・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒った椿岳の画短冊は劫火の中から辛うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。 が、椿岳の最も勝れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町に所蔵されてい・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 子供は、去年の春、生まれたので、まだ、今年の春にはあわないのであります。すると、母親はいいました。「春になると、水の上が、一面に明るくなるよ。けっして、あのように、一ところだけが、赤く、明るくなるというようなことがありません。」と・・・ 小川未明 「魚と白鳥」
・・・「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて……金さんも知っておいでだろう、以前やっぱり佃にいた魚屋の吉新、吉田新造って……」「吉田新造! 知ってるとも。じゃお光さん、本当かい?」「はあ」と術なげに頷く。「ふむ!」とばかり、男は酔いも何・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・看護婦が銭湯へ行った留守中で、寺田が受け取って見ると「明日午前十一時、淀競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待っている。来い。」と簡単な走り書きで、差出人の名はなかった。葉書一杯の筆太の字は男の手らしく、高飛車な文調はいずれは一代を自由にして・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫