・・・が、王生はそれを取り上げると、ちょいと顔を暗くしたが、しかし存外平然と、徐ろにこんな話をし出した。「僕の鶯鶯なぞと云うものはない。が、僕の恋をしている女はある。僕が去年の秋以来、君たちと太白を挙げなくなったのは、確かにその女が出来たから・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔を発したらしい声を出した。―― こんな葛藤が一週間に何度もある。従・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・それから、――教科書を取り上げるが早いか、無茶苦茶に先を読み始めた。 教科書の中の航海はその後も退屈なものだったかも知れない。しかし彼の教えぶりは、――保吉は未に確信している。タイフウンと闘う帆船よりも、もっと壮烈を極めたものだった。・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 盗人は妻が逃げ去った後、太刀や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄を切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ 父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰るように言った。「あまり古くなりましたんでついこの間……」「費用は事務費で仕払ったのか……俺しのほうの支払いになっているのか」「事務費のほうに計上しましたが……」「矢部に・・・ 有島武郎 「親子」
・・・なんのためだか知らないが僕はあっちこちを見廻してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色を取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。 僕・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・と、お婆さんは、心の中で言って、赤ん坊を取り上げると、「おお可哀そうに、可哀そうに」と、言って、家へ抱いて帰りました。 お爺さんは、お婆さんの帰るのを待っていますと、お婆さんが赤ん坊を抱いて帰って来ました。そして一部始終をお婆さんは・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・先方だって、まさか、そんな乱暴なことしやしないだろうがね、それは元々の契約というものは、君が万一家賃を払えない場合には造作を取上げるとか家を釘附けにするとかいうことになって居るんではないのだからね、相当の手続を要することなんで、そんな無法な・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「やれ取り上げるの、年貢をあげるので、すったもんだ云わんだけでも、なんぼよけりゃ。ずっと、こっちの気持が落ちついて居れるがな。」 村は、だん/\に変っていた。見通しのきく自作農の竹さんは、土地をすっかり売ッぱらって都会へ出た。地主の伊三・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・しかしこの思想を一の人生観として取り上げる時、そこに当然消極か積極かという問題が起こり来たらざるを得ないことは、すでにヨーロッパの論者が言っている通りである。而してその当然の解釈が、信ぜず従わずをもって単なる現状の告白とせず、進んでこれを積・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫