・・・野中教師、はっと気を取り直して呼びとめる。 お待ちなさい、菊代さん。どこへ行くのです。菊代、戸口のところに立ち上り、野中教師のほうにくるりと向き直る。口笛は、なお聞えている。お友だちのところへ。 それ・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・静かにステッキを垂直に取直しておいて、そろそろ回転させてみた。はじめはいっこうに気づかないようであるが九十度以上も回転すると何かしら異常を感じるらしく、つかまっている足を動かしてからだをねじ向ける。しかしそれはわずかに十度か二十度ぐらい回転・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・水平に持って歩いていた網を前下がりに取り直し、少し中腰になったまま小刻みの駆け足で走り出した。直径百メートルもあるかと思う円周の上を走って行くその円の中心と思う辺りを注意して見るとなるほどそこに一羽の鳥が蹲っている。そうしてじっと蹲ったまま・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・差しつくる蝋燭の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方にまたたく。乙女の顔は翳せる赤き袖の影に隠れている。面映きは灯火のみならず。「この深き夜を……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。「知らぬ路にこそ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・文学において悲観した余はこの図譜を得たために多少心細い気分を取り直した。図譜中にある建築彫刻絵画ともに、あるものは公平に評したら下らないだろうと思う。あるものは『源氏物語』や近松や西鶴以下かも知れない。しかしその優れたものになると決して文学・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・とのさまがえるは、よろこんで、にこにこにこにこ笑って、棒を取り直し、片っぱしからあまがえるの緑色の頭をポンポンポンポンたたきつけました。さあ、大へん、みんな、「あ痛っ、あ痛っ。誰だい。」なんて云いながら目をさまして、しばらくきょろきょろ・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ シグナルは、やっと元気を取り直しました。そしてどうせ風のために何を言っても同じことなのをいいことにして、「ばか、僕はシグナレスさんと結婚して幸福になって、それからお前にチョークのお嫁さんをくれてやるよ」と、こうまじめな顔で言ったの・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・ 梟の坊さんはしばらくゴホゴホ咳嗽をしていましたが、やっと心を取り直して、又講義をつづけました。「みなの衆、まず試しに、自分がみそさざいにでもなったと考えてご覧じ。な。天道さまが、東の空へ金色の矢を射なさるじゃ、林樹は青く枝は揺るる・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・長老はやっと気を取り直したらしく、大きく手を三度ふって、何か叫びかけましたけれども、今度だってやっぱりその通り、崩れるように泣いてしまったのです。祭司次長、ウィリアム・タッピングという人で、爪哇の宣教師なそうですが、せいの高い立派なじいさん・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ようよう気を取り直して、一枝二枝苅るうちに、厨子王は指を傷めた。そこでまた落ち葉の上にすわって、山でさえこんなに寒い、浜辺に行った姉さまは、さぞ潮風が寒かろうと、ひとり涙をこぼしていた。 日がよほど昇ってから、柴を背負って麓へ降りる、ほ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫