・・・が、何もし出さない内に、おぎん一人を残したまま、二人とも故人になってしまった。勿論彼等他国ものは、天主のおん教を知るはずはない。彼等の信じたのは仏教である。禅か、法華か、それともまた浄土か、何にもせよ釈迦の教である。ある仏蘭西のジェスウイッ・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、徐に頭を振りながら、「しかし何もこう云ったからと云って、彼が私の留守中に故人になったと云う次第じゃありません。ただ、かれこれ一年ばかり経って、私が再び内地へ帰って見ると、三浦はやはり落ち着き払・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ちょっと見るとなんでもないようだが、古人の考えにはおろそかでないところがあるだろう。俺しは今日その商人を相手にしたのだから、先方の得手に乗せられては、みすみす自分で自分を馬鹿者にしていることになるのだ。といってからに俺しには商人のような嘘は・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃故人の数に入ったが、照降町の背負商いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。体量も二十一貫ずッしりとした太腹で、女長兵衛と称え・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ と、袖に取った輪鉦形に肱をあげて、打傾きざまに、墓参の男を熟と視て、「多くは故人になられたり、他国をなすったり、久しく、御墓参の方もありませぬ。……あんたは御縁辺であらっしゃるかの。」「お上人様。」 裾冷く、鼻じろんだ顔を・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・椿岳の伝統を破った飄逸な画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽に漾う一種異様な蕭散の気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居で、故人を偲ぶ旧観の片影をだも認められない。 寒月の名は西鶴の発見者・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・尺寸の小幀でも椿岳一個の生命を宿している。古人の先蹤を追った歌舞伎十八番のようなものでも椿岳独自の個性が自ずから現われておる。多い作の中には不快の感じを与えられるものもあるが、この不快は椿岳自身の性癖が禍いする不快であって、因襲の追随から生・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・一葉落ちて天下の秋を知るとは古人の言だが、一行の落ちに新吉は人生を圧縮出来ると思っていた。いや、己惚れていた。そして、迷いもしなかった。現実を見る眼と、それを書く手の間にはつねに矛盾はなかったのだ。 ところが、ふとそれが出来なくなってし・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・その雑誌が市場に出てからちょうど一月が経とうとしているが、この一月私はなにか坂田に対して済まぬことをした想いに胸がふさがってならなかった。故人となってしまった人というならまだしも、七十五歳の高齢とはいえ今なお安らかな余生を送っている人を、そ・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・私は古人の「五月雨の降り残してや光堂」の句を、日を距ててではありましたが、思い出しました。そして椎茜という言葉を造って下の五におきかえ嬉しい気がしました。中の七が降り残したるではなく、降り残してやだったことも新しい眼で見得た気がしました。・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫