・・・ そうお蓮が書き続けていると、台所にいた雇婆さんが、突然かすかな叫び声を洩らした。この家では台所と云っても、障子一重開けさえすれば、すぐにそこが板の間だった。「何? 婆や。」「まあ御新さん。いらしって御覧なさい。ほんとうに何だと・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・凄じい古千屋の叫び声はもちろん、彼等の彼女を引据えようとする騒ぎも一かたならないのに違いなかった。 井伊の陣屋の騒がしいことはおのずから徳川家康の耳にもはいらない訣には行かなかった。のみならず直孝は家康に謁し、古千屋に直之の悪霊の乗り移・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・と云うかすかな叫び声を発したのである。 それは何故かと云うと、本間さんにはその老紳士の顔が、どこかで一度見た事があるように思われた。もっとも実際の顔を見たのだか、写真で見たのだか、その辺ははっきりわからない。が、見た覚えは確かにある。そ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・その拍子に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂いた。彼は思わず首を縮めながら、砂埃の立つのを避けるためか、手巾に鼻を掩っていた、田口一等卒に声をかけた。「今のは二十八珊だぜ。」 田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないよ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・しかもその糺問の声は調子づいてだんだん高められて、果ては何処からともなくそわそわと物音のする夕暮れの町の空気が、この癇高な叫び声で埋められてしまうほどになった。 しばらく躊躇していたその子供は、やがて引きずられるように配達車の所までやっ・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・まだ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び声がしている。暗い水の上を伝わって、長く尻声を引く。聞く耳のせいか溜らなく厭な声だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火がほとんど水にひッついて、水平線の上に浮いてるかのごとく、寂しい光を漏らし・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・風は叫び声をあげて頭の上を鋭く過ぎていました。名も知らぬ海鳥が悲しく鳴いて中空に乱れて飛んでいました。爺と子供の二人は、ガタガタと寒さに体を震わして岩の上に立っていますと、足先まで大波が押し寄せてきて、赤くなった子供の指を浸しています。二人・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・突然襲って来る焦躁にたまりかねて、あっと叫び声をあげ祈るように両手も差し上げるのだが、しかし天井からは埃ひとつ落ちて来ない。祈っても駄目だ、この病的な生活を洗い浄めて練歯磨の匂いのように新鮮なすがすがしい健康な生活をしなければならぬと、さま・・・ 織田作之助 「道」
・・・ を繰返し続けたが、だんだんその叫び声が自分ながら霜夜に啼く餓えた野狐の声のような気がされてきて、私はひどく悲しくなってきて、私はそのまま地べたに身体を投げだして声の限り泣きたいと思った。雨戸を蹶飛ばして老師の前に躍りだしてやるか――がその・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・四辺の家々より起こる叫び声、泣き声、遠かたに響く騒然たる物音、げにまれなる強震なり。 待てど二郎十蔵ともに出で来たらず、口々に宮本宮本、十蔵早く出でよと叫べども答えすらなし、人々は顔と顔と見合して愕き怪しみ、わが手を握りし岡村の手は振る・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫