・・・ばあさんは、金目になりそうな物はやるのを惜しがった。「こんな物を東京へ持って行けるんじゃなし、イッケシへ預けとく云うたって預る方に邪魔にならア!」「ほいたって置いといたら、また何ぞ役に立たあの。」「……うらあもう東京イ行たらじゝ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮す・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・女優は、けちな名前を惜しがっているから、いやだ。」「茶化しちゃいけない。まじめな話なんだよ。」「そうさ。僕も遊戯だとは思っていない。愛することは、いのちがけだよ。甘いとは思わない。」「どうも判らん。リアリズムで行こう。旅でもして・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・ 十六七の断髪娘は、立派な洋服を、惜し気なく、泥まみれにしながら、泣き喚いた。「誰か来てよう――、この百姓をつかまえてちょうだいよう――」 善ニョムさんも、ブルブルにふるえているほど怒っていた。いきなり、娘の服の襟を掴むとズルズ・・・ 徳永直 「麦の芽」
二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・口惜しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻る。「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦る。 小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発ると困るからね」「はははは。でかばちもない・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」 ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・何々侯爵、何子爵、何……夫人、と目にうつる写真の婦人のどれもどれもが、皆目のさめる様な着物を着て、曲らない様な帯を〆、それをとめている帯留には、お君の家中の財産を投げ出しても求め得られない様な宝石が、惜し気もなくつけられて居る。 どの顔・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ そして、有馬さとえ氏のように辛苦をして修業していた婦人画家さえ、大家になると同時に、その作品はどこやら覇気を失っていることが、私に何か心を痛ましめる惜しさを感じさせたのであった。 画の新しさ・主題・手法・色彩の溌溂として新鮮な感覚・・・ 宮本百合子 「帝展を観ての感想」
・・・感じ見るかと思うより先に、シェークスピアやホーマーの文句を思い出し、そのものを徹し、その描写にまとめて、自分の直観に頼らない、第二流文学者――否、芸術家的素質しか持たなかったか、と云う些の物足りなさ、惜しさ。 ヘンリー・ライクロフトの私・・・ 宮本百合子 「無題(四)」
出典:青空文庫