数年前までは正月元旦か二日に、近い親類だけは年賀に廻ることにしていた。そうして出たついでに近所合壁の家だけは玄関まで侵入して名刺受けにこっそり名刺を入れておいてから一遍奥の方を向いて御辞儀をすることにしていたのであるが、い・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・給仕女に名刺を持たせてお話をしたい事があるからと言って寄越す人が多い時には一夜に三四人も出て来るようになった。春陽堂と改造社との両書肆が相競って全集一円本刊行の広告を出す頃になると、そういう一面識もない人で僕と共に盃を挙げようというものがい・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・だから本当を云うと、こっちから名刺でも持って訪問するのが世間並の礼であったんだけれども、そこをつい怠けて、どこが長谷川君の家だか聞き合わせもせずに横着をきめてしまった。すると間もなく大阪から鳥居君が来たので、主筆の池辺君が我々十余人を有楽町・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・「おもしろい仕事がある。名刺をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」博士は名刺をとり出して、何かするする書き込んでブドリにくれました。ブドリはおじぎをして、戸口を出て行こうとしますと、大博士はちょっと目で答えて、「なんだ、ごみを焼いて・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・わしの名刺に向うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」 ネネムは名刺を呉れるかと思って待っていますと、博士はいきなり白墨をとり直してネネムの胸に、「セム二十二号。」と書きました。 ネネムはよろこんで叮寧におじぎをして先・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・記者その人々の存在は、社名入りの名刺とその旗を立てて走る自動車の威厳によって装われるようになったのであった。 最近十数年の間戦争を強行し、非常な迅さで崩壊の途を辿った今日までの日本で、新聞がどういうものであったかは、改めて云う必要さえも・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
・・・彼の妻で、知名なダンサーであるラタン・デビーのことなどをきいているところへ、女中が名刺を取次ぎ、一人の客を案内して来た。その顔を何心なく見、“Glad to see you”と云いながら、自分は思いがけない心地がした。 この人は、先赤門・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・ 石田は司令部から引掛に、師団長はじめ上官の家に名刺を出す。その頃は都督がおられたので、それへも名刺を出す。中には面会せられる方もある。内へ帰ってみると、部下のものが名刺を置きに来るので、いつでも二三枚ずつはある。商人が手土産なんぞを置・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・そして名刺入から、医学士久保田某と書いた名刺を出してわたした。 ロダンは名刺を一寸見て云った。「ランスチチュウ・パストョオルで為事をしているのですか。」「そうです。」「もう長くいますか。」「三箇月になります。」「Avez・・・ 森鴎外 「花子」
出典:青空文庫