・・・されば昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、・・・ 永井荷風 「狐」
・・・君見よと宵に贈れる花輪のいつ摧けたる名残か。しばらくはわが足に纏わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹と立ち直りて、繊き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩ゆき光り矢の如く向い側なる室の中よりギニヴィアの頭に戴ける冠を照らす。輝け・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・花か蔦か或は葉か、所々が劇しく光線を反射して余所よりも際立ちて視線を襲うのは昔し象嵌のあった名残でもあろう。猶内側へ這入ると延板の平らな地になる。そこは今も猶鏡の如く輝やいて面にあたるものは必ず写す。ウィリアムの顔も写る。ウィリアムの甲の挿・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人は・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・若人はたすきりりしくあやどりて踊り屋台を引けば上にはまだうら若き里のおとめの舞いつ踊りつ扇などひらめかす手の黒きは日頃田草を取り稲を刈るわざの名残にやといとおしく覚ゆ。 刈稲もふじも一つに日暮れけり 韮山をかなたとばかり晩靄の間・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・その句また 尾張より東武に下る時牡丹蘂深くわけ出る蜂の名残かな 芭蕉 桃隣新宅自画自讃寒からぬ露や牡丹の花の蜜 同等のごとき、前者はただ季の景物として牡丹を用い、後者は牡丹を詠じてきわめて拙きものなり。蕪・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 只さえ秋毛は抜ける上に、夏中の病気の名残と又今度の名残で倍も倍も抜けて仕舞う。 いくら、ぞんざいにあつかって居るからってやっぱり惜しい気がする。 惜しいと思う気持が段々妙に淋しい心になって来る。 細かい「ふけ」が浮いた抜毛・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・ 筆をつけて居る時の苦心の名残は、つゆほどもなく、スラスラと、江戸前のパリパリの筆の運びには、感歎のほかはないのである。 よくこう筆が動いたものだ。 読んだものの、誰れでもが感じる、正直な、幾年たっても変らない感じである。 ・・・ 宮本百合子 「紅葉山人と一葉女史」
・・・ 今日の主人増田博士の周囲には大学時代からの親友が二三人、製造所の職員になっている少壮な理学士なんぞが居残って、燗の熱いのをと命じて、手あきの女中達大勢に取り巻かれて、暫く一夕の名残を惜んでいる。 花房という、今年卒業して製造所に這・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・これは十九のとき漢学に全力を傾注するまで、国文をも少しばかり研究した名残で、わざと流儀違いの和歌の真似をして、同窓の揶揄に酬いたのである。 仲平はまだ江戸にいるうちに、二十八で藩主の侍読にせられた。そして翌年藩主が帰国せられるとき、供を・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫