・・・僕は二度も僕の目に浮んだダンテの地獄を詛いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。そのうちに又あらゆるもののであることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。僕・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・その代りこの婆のする事は、加持でも占でも験がある――と云うと、善い方ばかりのようですが、この婆に金を使って、親とか夫とか兄弟とかを呪い殺したものも大勢いました。現にこの間この石河岸から身を投げた男なぞも、同じ柳橋の芸者とかに思をかけたある米・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・軽焼が疱瘡痲疹の病人向きとして珍重されるので、疱瘡痲疹の呪いとなってる張子の赤い木兎や赤い達磨を一緒に売出した。店頭には四尺ばかりの大きな赤達磨を飾りつけて目標とした。 その頃は医術も衛生思想も幼稚であったから、疱瘡や痲疹は人力の及び難・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・何カ月目だったか、とにかく彼女のいわゆるキューピーのような恰好をしていたのを、彼女の家の裏の紅い桃の木の下に埋めた――それも自分が呪い殺したようなものだ――こうおせいに言わしてある。で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・彼はそうしたものを見るにつけ、それが継母の呪いの使者ではないかという気がされて神経を悩ましたが、細君に言わせると彼こそは、継母にとっては、彼女らの生活を狙うより度しがたい毒虫だと言うのであった。 彼は毎晩酔払っては一時ごろまでぐっすりと・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・のお来臨と二十銭銀貨に忠義を売るお何どんの注進ちぇッと舌打ちしながら明日と詞約えて裏口から逃しやッたる跡の気のもめ方もしや以前の歌川へ火が附きはすまいかと心配ありげに撲いた吸殻、落ちかけて落ちぬを何の呪いかあわてて煙草を丸め込みその火でまた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ここに至って私は自分の強梁な知識そのものを呪いたくなる。五 自分は何らの徹底した人生観をも持っていない。あらゆる既存の人生観はわが知識の前にその信仰価を失う。呪うべきはわが知識であるとも思うが、しかたがない。何らかの威力が迫・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・鳴ったりして、やっとの事で皆を引き連れ、エジプト脱出に成功したが、それから四十年間荒野にさまよい、脱出してモーゼについて来た百万の同胞は、モーゼに感謝するどころか、一人残らずぶつぶつ言い出してモーゼを呪い、あいつが要らないおせっかいをするか・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・と極度の疲労のため精神朦朧となり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世を呪い、わが身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶ烏の大群を見上げ、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と小声で言って、眼を閉じた。 この湖畔の呉王廟は、・・・ 太宰治 「竹青」
・・・シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。 去れどありのままなる世は罪・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫