・・・その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。 ……枝を交した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」と、威丈高に罵りました。 が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏っ・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・宗門の内証に背くものとして、呵責を加うる事数日なり。されどわれ、わが眼にて見、わが耳にて聞きたるこの悪魔「るしへる」を如何にかして疑う可き。悪魔また性善なり。断じて一切諸悪の根本にあらず。 ああ、汝、提宇子、すでに悪魔の何たるを知らず、・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・女の尻を追い廻す、という最下等のいやな言葉が思い浮びましたが、私の場合は、それとちがうのだというような気もして、そんなに天の呵責も感じませんでした。なんとかして一言、なぐさめてやりたかったのです。女の人は、私のほうをちらと見て、立ち上りまし・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・でも私は、この手紙を投函しても、良心の呵責は無かった。よい事をしたと思った。お気の毒な人に、わずかでも力をかしてあげるのは、気持のよいものです。けれども私は此の手紙には、住所も名前も書かなかった。だって、こわいもの。汚い身なりで酔って私のお・・・ 太宰治 「恥」
・・・鞭影への恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである。自己保存の本能なら、馬車馬にも番犬にもある。けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を、知ら・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・にして、この婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の婆さんは、瞬きもせず余が黄色な面を打守りていかなる変化が余の眉目の間に現るるかを検査する役目を務める、御役目御苦労の至りだ、この二婆さんの呵責に逢てより以来、余が猜疑心はますます・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・永劫の呵責に遭わんとするものはこの門をくぐれ。迷惑の人と伍せんとするものはこの門をくぐれ。正義は高き主を動かし、神威は、最上智は、最初愛は、われを作る。我が前に物なしただ無窮あり我は無窮に忍ぶものなり。この門を過ぎんとす・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・こうした長尻の客との対坐は、僕にとってまさしく拷問の呵責である。 しかし僕の孤独癖は、最近になってよほど明るく変化して来た。第一に身体が昔より丈夫になり、神経が少し図太く鈍って来た。青年時代に、僕をひどく苦しめた病的感覚や強迫観念が、年・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫