・・・今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除けさした。余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚が俄に水を持ったように膨れ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。 それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・これらの飾らず、たくまざる人々の記録と、職業家のルポルタージュとの対比は、文学に関心をもつ者の心に真摯な考慮を呼びさまさずにはいない。又、いつかは「支那さん」と呼ばれている人々の記述も広汎な世界の文学の領野にあらわれて来る日があるであろう。・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュー・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子権兵衛、二男弥五兵衛、つぎにまだ前髪のある五男七之丞の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・今はかほどまでに熟睡して、さばれ、いざ呼び起そう」 忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵にあッた薙刀も、床にあッたくさりかたびらも、無論三郎がくれた匕首もあたりには影もない。「すわやおれがぬかッたよ。常より物に凝るならい……・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。「手前、俺を知っているのか?」「知るも知らんもあるものか。汝大きゅうなったやないか。」 秋三は暫く乞食の顔を眺めていた。すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げ・・・ 横光利一 「南北」
・・・往来から夜の空の見える具合がそういう連想を呼び起こしたのかと思われるが、その時には新しく建設せられる東京がいかにも植民地的であるのを情けなく思った。しかしその後二年もたつとシンガポールの場末という感じはなくなった。おいおい高層建築が立ち並ぶ・・・ 和辻哲郎 「城」
出典:青空文庫