・・・元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかった。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・煙草にむせて苦しそうに背中を丸めて咳きながら、黒島伝治が議事録に何か細かく書きこんでいる。男の子を膝の上に抱いて、その子の頬っぺたと同じ赤い丸い頬っぺたをした松田解子。 火みたいな速口で、活溌に、ときにはやや見当はずれに質問動議を連発す・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
・・・患者たちは咳き始めた。彼らの一回の咳は、一日の静養を掠奪する。病舎は硝子戸で金網の外から密閉された。部屋には炭酸瓦斯が溜り出した。再び体温表が乱れて来た。患者の食慾が減り始めた。人々はただぼんやりとして硝子戸の中から空を見上げているだけにす・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫