・・・元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかった。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ 初めて杖を留めた凾館は、北海の咽喉といわれて、内地の人は函館を見ただけですでに北海道そのものを見てしまったように考えているが、内地に近いだけそれだけほとんど内地的である。新開地の北海道で内地的といえば、説明するまでもなく種々の死法則の・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」「まあ……」 黙ってしばらくして、「さあ。」 手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を二人。 隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「糠袋を頬張って、それが咽喉に詰って、息が塞って死んだのだ。どうやら手が届いて息を吹いたが。……あとで聞くと、月夜にこの小路へ入る、美しいお嬢さんの、湯帰りのあとをつけて、そして、何だよ、無理に、何、あの、何の真似だか知らないが、お嬢さ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・あの乾枯びたシャモの頸のような咽喉からドウしてアンナ艶ッぽい声が出るか、声ばかり聞いてると身体が融けるようだが、顔を見るとウンザリする、」といった。が、顔を見るとウンザリしてもその声に陶酔した気持は忘れられないと見えて、その後も時々垣根の外・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 男は口笛を吹いていたが、不意に襖ごしに声をかけて来た。「どないだ? 退屈でっしゃろ。飯が来るまで、遊びに来やはれしまへんか」「はあ、ありがとう」 咽喉にひっ掛った返事をした。二、三度咳ばらいして、そのまま坐っていた。なんだ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ ぎゃッと声を出したが、不思議に涙は出ず、豹一がキャラメルのにちゃくちゃひっついた手でしがみついてきたとき、はじめて咽喉のなかが熱くなった。そして何も見えなくなった。やがて活気づいた電車の音がした。 その夜、近くの大西質店の主人が大・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ と破れた人間離のした嗄声が咽喉を衝いて迸出たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を劈いて四方へ響渡ったのみで、四下はまた闃となって了った。ただ相変らず蟋蟀が鳴しきって真円な月が悲しげに人を照すのみ。 若し其処のが負傷者なら、この叫声・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・そして疲れはてては咽喉や胸腹に刃物を当てる発作的な恐怖に戦きながら、夜明けごろから気色の悪い次ぎの睡りに落ちこんだ。自然の草木ほどにも威勢よく延びて行くという子供らの生命力を目の当り見せられても、讃美の念は起らず、苦痛であった。六・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・その血が顎から咽喉を伝って、すっかりムキだしにされて、せわしくあえいでいる胸を流れるのが分かった。立ち上ると源吉は腕で顔をぬぐつた、犬の方を見定めようとするようだった。犬は勝ち誇ったように一吠え吠えると、瞬間、源吉は分けの分らないことを口早・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
出典:青空文庫