・・・ こんな、便りない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆に陥った天才にも似ている! この空想はいつも私を悲しくする。その全き悲しみのために、この結末の妥当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではな・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
一 笆に媚ぶる野萩の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくな・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・げに真情浅き少女の当座の曲にその魂を浮かべし若者ほど哀れなるはあらじ。 われしばしこの二人を見てありしに二人もまた今さらのように意づきしか歌を止め、わが顔を見上げて笑いぬ、姉なるは羞しげに妹なるはあきれしさまにて。われまたほほえみてこれ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・これはもとより望ましきものではないが、それは人間苦悩の哀れむべき相であって、またそれを通じて美しき人間性の発露もあり得る。日本民族独特の情死の如きは、もっと鞏固な意志と知性とが要求されるとはいえ、またそうでなければ現われることのできない人心・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・語調が哀れで悄然としていた。唇が動くにつれて、鰌髭が上ったり下ったりした。返事は露西亜語で云われたが、彼には意味がとれなかった。「どうして、こんなところへやって来たんだ?」 彼は、また露西亜語できいた。老人は不可解げに頸をひねって、・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合のことの好きな磊落な人が、ボラ釣は豪爽で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういう・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 彼は、これまでかつて人を信ずることの出来なかった、哀れな人間です。彼はしたいままの乱暴をしました。そうしておいて自分の命を少しでも長く盗むために、あらゆる人を疑りました。そのためには多くの人をどんどん殺したり押しこめたりしました。です・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・何となれば、芸術家には、殆ど例外なく、二つの哀れな悪徳が具わって在るものだからであります。その一つは、好色の念であります。この男は、よわい既に不惑を越え、文名やや高く、可憐無邪気の恋物語をも創り、市井婦女子をうっとりさせて、汚れない清潔の性・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・驚いて見ていると、この暴君はまもなくこの哀れな俘虜を釈放して、そうしてあたかも何事も起こらなかったように悠々とその固有の雌鳥の一メートル以内の領域に泳ぎついて行った。善良なるその妻もまたあたかもこの世の中に何事も起こらなかったかのように平静・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・お玉が泣きながら、白髪の母親に手を引かれ、裏門をくぐって行く後姿は、何となく私の目にも哀れであった。此れ以来、私には何だか田崎と云う書生が、恐いような、憎いような気がして、あれはお父さんのお気に入りで、僕等だの、お母さんなどには悪い事をする・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫