・・・ ヘンに目立つような真四角な風呂敷包みを三等車の網棚に載せて、その下の窓ぎわに腰かけながら、私たちはこう囁き合ったりした。不憫なほど窶れきった父の死にぎわの面影が眼に刻まれていたが、汽車に乗りこんで私たちはややホッとした気持になった。も・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ ふと少女はそんな囁きを風のなかに聞いた。胸がドキドキした。しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。「どうだったい」 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めか・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠め・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは霙の音なり。源叔父はしばしこのさびしき音を聞入りしが、太息して家内を見まわしぬ。 豆洋燈つけて戸外に出れば寒さ骨に沁むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 声が室外へ漏れんように小さく囁き合った。「やっぱし、怪我をして内地へ帰るんが一番気が利いてら。」「こん中にゃ、だいぶわざと負傷してきた奴があるじゃろうがい?」大西は無遠慮に寝台を見まわした。「そういう奴は三等症だぞ。」「三・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 一カ月の後、彼女は、別の、色の生白い、ステッキを振り振り歩く手薄な男につれられて、優しく低く、何事かを囁きながら、S町への大通りを通っていた。 虹吉も家を捨てた。六 そして、僕が、兄に代って、親を助けて家の心配をし・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回って来た春を私語いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦も帰って行った。書生は電話口でしき・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・中には男に孅弱な手を預け、横から私語かせ、軽く笑いながら樹蔭を行くものもあった。妻とすら一緒に歩いたことのない原は、時々立留っては眺め入った。「これが首を延して翹望れていた、新しい時代というものであろうか」こう原は自分で自分に尋ねて見たので・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・暮れて行く空や水や、ありやなしやの小島の影や、山や蜜柑畑や、森や家々や、目に見るものがことごとく、藤さんの白帆が私語く言葉を取り取りに自分に伝えているような気がする。 と、ふと思わぬところにもう一つ白帆がある。かなたの山の曲り角に、靄に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・小川の囁き、村の人達の声、船頭の歌や木々のさわめき、小鳥の囀り等は皆混り合い、彼女の心のときめきと一つのものになりました。其等の音は、スバーの落付かない魂に打ちよせる、一つの広い響の波となります。此自然の囁き動きこそ、唖の娘の言葉でした。長・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫