・・・の記者にこの時の彼女の心もちはちょうど鎖に繋がれた囚人のようだったと話している。が、かれこれ三十分の後、畢に鎖の断たれる時は来た。もっともそれは常子の所謂鎖の断たれる時ではない。半三郎を家庭へ縛りつけた人間の鎖の断たれる時である。濁った朱の・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、工場の煙突でなく、路傍の藪でなく、寺の屋根でもなく、影でなく、日南でなく、土の凸凹でもなく、かえって法廷を進退する公事訴訟人の風采、俤、伏目に我を仰ぎ見る囚人の顔、弁護士の額、原告の鼻、検事の髯・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
常に其の心は、南と北に憧がれる。 陰惨なペトログラードや、モスクワオの生活をするものは、南露西亜の自然と生活をどんなに慕うだろう。また、囚人の行くシベリヤをどんなに眼に描くだろう。彼等は憧がれなしには生きられない人々である。 ・・・ 小川未明 「北と南に憧がれる心」
・・・――こうした悪虐な罪人がなお幾年かを続けねばならぬ囚人生活の中からただ今先生のために真剣な筆を走らしていますことは、何かしら深い因縁のあることと思います。ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 向うのコンクリートの建物の間を、赤い着物をきた囚人が一列に並んで仕事から帰ってくるのが見える。 俺は始め身体がどうしても小刻みにふるえて、困った。「どうだ、初めての着工合は……」 と看守が云った。 俺は、知らないうちに・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・をおそれて、街上へ家財をもち出し、布や板で小屋がけをして寝たり、どのうちへも大てい一ぱい避難者が来て火事場におとらずごたごたする中で、一日二日の夜は、ばく弾をもった或暴徒がおそって来るとか、どこどこの囚人が何千人にげこんで来たというような、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・おや、聞えますね。囚人たちの唱歌ですよ。シオンのむすめ、…… ――語れかし! ――わが愛の君に。私は讃美歌をさえ忘れてしまいました。いいえ、そういう謎のつもりでは無かったのです。あなたから、何もお伺いしようと思いません。そんなに気を・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・我もまた、一囚人、「ひとり!」と鍵の束持てるポマアドの悪臭たかき一看守に背押されて、昨夜あこがれ見しテニスコートに降り立ちぬ。 銅貨のふくしゅう。……の暗躍。ただ、ただ、レッド・テエプにすぎざる責任、規約の槍玉にあげられた鼻のまるい・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・たとえば極貧を現わすために水道の止まった流しに猫の眠っている画面を出すとか、放免された囚人の歓喜を現わすのに春の雪解けの川面を出すとか、よしやそれほどの技巧は用いないまでも、とにかく文学的の言葉をいわゆるフォトジェニックなフィルミッシな表現・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・開場式のお歴々の群集も畢竟一種の囚徒で、工場主の晩餐会の卓上に列なる紳士淑女も、刑務所の食卓に並ぶルンペンらも同じくギャングであり囚人の群れであるように思われてくる。 ルイとエミールはこれらのあらゆる囚獄を片端から打ち破り、踏み破って「・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫