・・・ 隣りの子供が三人大立廻りをして声をそろえて泣き出す。 私も一緒にああやって泣きたい。 声を出そうかと思って口をあく、――あきは開いても、 何ぼ何でも、と思うと出かけた声も喉深くひっ込んで仕舞う。 風がサアーッと吹・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・長十郎は平生忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。もはや本復は覚束ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物を枕もとにかけてくれ」と言いつけてお・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・で、小屋の中を小声で囀りながら一廻りすると外へ出て来て、また茶畑の方へ霜を蹴り蹴りぴょんぴょんと飛んでいった。十四 野路では霜柱が崩れ始めた。お霜は粥を入れた小鉢を抱えたまま、「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。安次が死ん・・・ 横光利一 「南北」
・・・勿論何のことか判然聞取なかったんですが、ある時茜さす夕日の光線が樅の木を大きな篝火にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを眩く輝かさせた残りで、お着衣の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と燃させて行頃何か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・台石の回りに咲き乱れている菫や薔薇、その上にキラキラと飛び回っている蜜蜂、――これらの小さい自然の内にも、人間の手で造った偶像よりははるかに貴い生が充ちわたっている。彼は興奮してアゴラへ行って人々に論じかけた。エピクリアンの哲学者が彼の相手・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫