・・・ 事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親や内儀さんが戸の外に走り出て彼らを出迎えた。土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 仔細は希有な、…… 坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。施与には違いなけれど、変な事には「お禁厭をして遣わされい。虫歯が疚いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状に掌・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・その頃はマダ葵の御紋の御威光が素晴らしい時だったから、町名主は御紋服を見ると周章てて土下座をして恭やしく敬礼した。毎年の元旦に玄関で平突張らせられた忌々しさの腹慰せが漸とこさと出来て、溜飲が下ったようなイイ気持がしたと嬉しがった。表面は円転・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・もなしとさまざま息子の嫁を探したあげく、到頭奴さんの勤めている工場の社長の家へ日参して、どうぞお宅のお嬢さんを伜の嫁にいただかせて下さいと、百万遍からたのみ、しまいには洋風の応接間の敷物の上にぺたりと土下座し、頭をすりつけ、結局ものにしたと・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・一国の領主に言葉を交えるのすら平民には大変な異例でしょう。土下座とか云って地面へ坐って、ピタリと頭を下げて、肝腎の駕籠が通る時にはどんな顔の人がいるのかまるで物色する事ができなかった。第一駕籠の中には化物がいるのか人間がいるのかさえ分らなか・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・徳川時代の民が土下座したとき、その埃のふかい土は素朴で、けっして現代のドライヴ・ウェイをもたず、全波ラジオをもたなかった。封建生活そのものとしての統一があり、封建の枠の内でつつましいおのれは分裂していなかった。自我の分裂の苦悩を封建人は知ら・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・ 台所の土間に土下座をするようにして、顔もあげ得ずまごつきながら、四俵のはずのところを二俵で勘弁してくれと云う禰宜様宮田を、上の板の間に蹲踞んで見下していた年寄りは、思わず、「フム、フム」とおかしな音をたてて鼻を鳴らしたほど、い・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 動揺のモメントが共産主義や進歩的な文化運動への批判、個性の再吟味にあるという近代知識人的な自覚は、その実もう一重奥のところでは、土下座をしているあわれなものの姿と計らず合致していると思うのである。 私がさっき村山や中野に連関してく・・・ 宮本百合子 「冬を越す蕾」
・・・そうしてこの人々の前に土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのように思われました。 これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ漫然と風習に従って土下・・・ 和辻哲郎 「土下座」
出典:青空文庫