・・・ いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。 しかしそれは偽である。彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・腹で、お敏の本心を聞かない内は、ただじゃ帰らないくらいな気組でしたから、墨を流した空に柳が聳えて、その下に竹格子の窓が灯をともした、底気味悪い家の容子にも頓着せず、いきなり格子戸をがらりとやると、狭い土間に突立って、「今晩は。」と一つ怒鳴っ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋のままの足を炉ばたから抜いて土間に下り立つと、うやうやしく彼に向かって腰を曲げた。「若い且那、今度はまあ御苦労様でございます」 その中で物慣れたらしい半白の丈けの高いのが、一同に代わってのよう・・・ 有島武郎 「親子」
・・・刃に歯向う獣のように捨鉢になって彼れはのさのさと図抜けて大きな五体を土間に運んで行った。妻はおずおずと戸を閉めて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭の不似合な、長顔の・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐りたかった。」「まあ、貴下、大抵じゃなかったのねえ。」 フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕はつけ元まで、二人は、は・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・お前さん、中は土間で、腰掛なんか、台があって……一膳めし屋というのが、腰障子の字にも見えるほど、黒い森を、柳すかしに、青く、くぐって、月あかりが、水で一漉し漉したように映ります。 目も夜鳥ぐらい光ると見えて、すぐにね、あなた、丼、小鉢、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・省作が目をさました時は、満蔵であろう、土間で米を搗く響きがずーんずーと調子よく響いていた。雨で家にいるとせば、繩でもなうくらいだから、省作は腹の中ではよいあんばいだわいと思いながら元気よく起きた。 省作は今日休ませてもらいたいのだけれど・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・妻は台所の土間に藁火を焚いて、裸体の死児をあたためようとしている。入口には二、三人近所の人もいたようなれどだれだかわからぬ。民子、秋子、雪子らの泣き声は耳にはいった。妻は自分を見るや泣き声を絞って、何だってもう浮いていたんですものどうしてえ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・私は古草鞋や古下駄の蹈返された土間に迷々していると、上さんがまた、「お上り。」「は。」と答えた機で、私はつと下駄を脱捨てて猿階子に取着こうとすると、「ああ穿物は持って上っておくれ。そこへ脱いどいて、失えても家じゃ知らんからね。」・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 表戸を開けてはいると四坪の土間で、藁がいっぱい積まれてあった。八畳の板の間には大きな焚火の炉が切ってあって、ここが台所と居間を兼ねた室である。その奥に真暗な四畳の寝間があった。その他には半坪の流し場があるきりで、押入も敷物もついてなか・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫