・・・一座敷時間は十分間ぐらいで、報酬は拾五円が普通、それ以上御好みのきわどい芸をさせるには二、三十円であった。その当時、最初はこの女一人であったがほどなく新橋南地の新布袋家という芸者家からも、同じようなダンスを見せる女が現れた。間もなく震災があ・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・するとこの一歩専門的になるというのはほかの意味でも何でもない、すなわち自分の力に余りある所、すなわち人よりも自分が一段と抽んでている点に向って人よりも仕事を一倍にして、その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・劣の階段を設くる必要なき作品に対して、国家的代表者の権威と自信とを以て、敢て上下の等級を天下に宣告して憚らざるさえあるに、文明の趨勢と教化の均霑とより来る集合団体の努力を無視して、全部に与うべきはずの報酬を、強いて個人の頭上に落さんとするは・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋竹笋の間より起たしむるあたわざりしもの何・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その放縦不羈世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ところが、それに対する賃銀となると村の標準、しかも村の女の労銀との比較で問題になって、結局彼女たちの労力に対する報酬としては全く未熟練な日傭娘に等しいものを受けなければならなくなって来る。これを、一つの社会的な矛盾と見るのは誤りであると何人・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・中には随分曖昧な、家賃一ヵ年分を報酬として請求するとか、三月分を強請されて、家はどうにか見付かったが、その片をつけるに困ったとかいう噂が彼方此方にあった。私共も、自分で探していたのでは到底、何時になったら見付かるか、見当もつかないような有様・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・女の生涯に取って、報酬を予期しない看護婦になると云うこと、しかもその看護を自己の生活の唯一の内容としていると云うこと程、大いなる犠牲は又とあるまい。それも夫婦の義務の鎖に繋がれていてする、イブセンの謂う幽霊に祟られていてすると云うなら、別問・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・若し旨く行ったら、君は自ら贏ち得た報酬で宿屋の勘定をするが好い。それが旨く行かず、又故郷からも金が来なかったら、宿屋の勘定だけを私が引き受ける。私にはそれ以上の約束は出来ない。それで好いかと、私は云った。 F君は私の詞を聞いて、少し勝手・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・父の日常の動作に「報酬のため」或いは「生活費のため」という影のさしたことをかつて見たことがない。報酬はもちろん受ける、しかし自分の任務を果たすことが第一であるから、もし患者が報酬を払わなくともそれを取り立てようとはせぬ。そうして報酬とまるで・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫