・・・殊に親の手を離れて間のないものが、のっぴきならぬ場合になると、こうしたものである。青年は忽ち目に涙を一ぱい浮べた。 老人はそのがっしりした体で、ごつごつした頭を前屈みにして、両足で広く地面を踏んで立って、青年の顔を見詰めている。思い掛け・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・前に、イタリヤのメッシーナという重要な港とその附近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八町四方を焼いたのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上二つの場合にくらべると、ずっとかるかったのです・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・大抵の場合不確な考えの翻訳と云う順序を踏まなければならず、為に、私共は、よく間違って仕舞います。 けれども、スバーの黒い眼には、何の翻訳もいりませんでした。心そのものが影をなげました。眼の裡に、思いは開き閉じ、耀き出すかと思えば、闇の中・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・けれども、兄妹みんなで、即興の詩など、競作する場合には、いつでも一ばんである。できている。俗物だけに、謂わば情熱の客観的把握が、はっきりしている。自身その気で精進すれば、あるいは一流作家になれるかも知れない。この家の、足のわるい十七の女中に・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑い顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入江の船の船頭が禿頭を夕日にてかて・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・「しかし誰でもあの男の場合に出合ったら、あの男と同じ行為に出でたでしょう。どうも外に為様はないじゃありませんか。一体被告の申立ては法廷を嘲弄しているものと認めます」と、裁判官達は云った。 おれは死刑を宣告せられた。それから法廷を侮辱・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれば、現在より多数の人間が生存し得られるかもしれないが、そうなったとした場合に、それがために人類の幸福が増すかどうかそれは疑問で・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・もし事情が許せば、静かなこの町で隠逸な余生を楽しむ場合、陽気でも陰気でもなく、意気でも野暮でもなく、なおまた、若くもなく老けてもいない、そしてばかでも高慢でもない代りに、そう悧巧でも愚図でもないような彼女と同棲しうるときの、寂しい幸福を想像・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・先生は女が髪を直す時の千姿万態をば、そのあらゆる場合を通じて尽くこれを秩序的に諳じながら、なお飽きないほどの熱心なる観察者である。まず、忍び逢いの小座敷には、刎返した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはま・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・一纏めにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫になったり、解くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車というよりは、吾人の知・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
出典:青空文庫