・・・ついに一篇も売れなかったけれど、百篇にあまる小説を書いた。しかし、それはいずれもこの老人の本気でした仕業ではなかった。謂わば道草であった。いまだにこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけた頬をあからめさせるのは、酔いどれることと・・・ 太宰治 「逆行」
・・・一びん百円の香水でもとにかく売れて行くのである。一方ではまた、嗅覚と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないように思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 五つか六つ売れると、水もそれだけ減らしていいから、ウンと荷が軽くなる。気持もはずんでくる。ガンばってみんな売ってゆこうという気になる。「こんちはァ、こんにゃく屋ですが、御用はありませんか」 一二度買ってくれた家はおぼえておいて・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・裏の藪から伐って来て、青竹の灰吹で間に合わしておけばよいと思っているところでは灰吹は売れない訳である。したがって売っているはずがないのである。そういう風に自分で人の厄介にならずに裏の藪へ行って竹を伐って灰吹を造るごとく、人のお世話にならない・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・の初版が、僅かにただ三部しか売れなかつたといふ歴史は、この書物の出版当時に於て、これを理解し得る人が、全独逸に三人しか居なかつたことを証左して居る。彼の著書の中で、比較的初学者に理解し易いと言はれ、したがつて又ニイチェ哲学の入門書と言はれる・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・いかんとなれば、当初、余が著述は、かつて身に経験あるに非ず、ただ西洋の事をたやすく世人に知らせんものをと思う一心よりこれを出版して、存外によく売れたるにつき、これは面白しとて、また出版すれば、また売れ、ついに図らざる利益を得たることにして、・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
・・・しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしを・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・本当にいい本必要な本しか売れにくくなったと。 ここに、生活の条件とぴったりあった人の考えかた、判断というものがあらわれているわけです。 きょう本を買うにしても、その判断を示す一冊の本の買いかたに私たちの今日もっている文化の水準も傾向・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・僕のかく画だって、実物ではないが、今年も展覧会で一枚売れたから、慥かに多少の価値がある。だから僕の画を本当だとするには、異議はない。そこでコム・シィはどうなるのだ。」「まあ待ち給え。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「直ぐ売れてしまうで今やなきゃあかんぞな。銭なんていつでもええわ。上村の三造さんの嫁さんに頼まれてるのやで、姉やんが要らんだら持っていくけど。」「わしらそんな良えのしたかて、何処へも見せに行くところがないわ。」「そんなこと云うて・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫