・・・ 外所は豆腐屋の売声高く夕暮近い往来の気勢。とてもこの様子ではと自分は急に起て帰ろうとすると、母は柔和い声で、「最早お帰りかえ。まア可いじゃアないか。そんなら又お来でよ」と軍曹の前を作ろった。 外へ出たが直ぐ帰えることも出来ず、・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧の音と雑ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・という場合がしばしばあった。「お銀がつくった大ももは」という売声には色々な郷土伝説的の追憶も結び付いている。それから十市の作さんという楊梅売りのとぼけたようで如才のない人物が昔のわが家の台所を背景として追憶の舞台に活躍するのである。 大・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・ 同じく昔の郷里の夏の情趣と結びついている思い出の売り声の中でも枇杷葉湯売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に烏丸枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・とその売声が註にしてある。此書は明治四十年の出版であるが、鍋焼温飩の図を出して、支那蕎麦屋を描いていない。之に由って観れば、支那そばやが唐人笛を吹いて歩くようになったのは明治四十年より後であろう歟。 支那蕎麦屋の夜陰に吹き鳴す唐人笛には・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・何にしたものか今はただ売声だけ覚えています。それから「いたずらものはいないかな」と云って、旗を担いで往来を歩いて来たのもありました。子供の時分ですからその声を聞くと、ホラ来たと云って逃げたものである。よくよく聞いて見ると鼠取りの薬を売りに来・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
出典:青空文庫