・・・こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・でも言葉は大阪と少しも変わりはなかった。山がだんだんなだらかになって、退屈そうな野や町が、私たちの目に懈く映った。といってどこに南国らしい森の鬱茂も平野の展開も見られなかった。すべてがだらけきっているように見えた。私はこれらの自然から産みだ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・その事に思い至れば、生もまたその淋しい事において、甚しく死と変りがないのであろう。 ○ オペラ館の楽屋口に久しく風呂番をしていた爺さんがいた。三月九日の夜に死んだか、無事であったか、その後興行町の話が出ても、誰・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・しばらくして君とわれの間にあまれる一尋余りは、真中より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒めたり。醒めたるあとにもなお耳を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・小立野の高台から見はらす北国の青白い空には変りはないが、何十年昔のこととて、街は大分変っているように思われた。ユンケル氏はその後一高の方へ転任せられ、もう大分前に故人となられた。エスさんも、その後何処に行かれたか。その頃私より少し年上であっ・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑の迷い。偶には足許も見ては何うか。すると「いや、此儘で幸福だ」というような事がありはせんか、と、まア思うんだな。 私は何も仏を信じてる訳・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・車屋に沿うて曲って、美術床屋に沿うて曲ると、菓子屋、おもちゃ屋、八百屋、鰻屋、古道具屋、皆変りはない。去年穴のあいた机をこしらえさせた下手な指物師の店もある。例の爺さんは今しも削りあげた木を老眼にあてて覚束ない見ようをして居る。 やっち・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ 霧の粒はだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳いろのけむりに変わり、草や木の水を吸いあげる音は、あっちにもこっちにも忙しく聞こえだしました。さすがの歩哨もとうとうねむさにふらっとします。 二疋の蟻の子供らが、手をひいて、・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・ 作家が社会化し、大人になるということは単に踏む土と聞く音が変り、異常事の只中に在るというだけでは尽されない。その重大な文学的実験を、林氏は自身のルポルタージュで告白しているのである。 将来日本の文学に、ルポルタージュが増大して来る・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・それは不断から機嫌の変わり易い宇平が、病後に際立って精神の変調を呈して来たことである。 宇平は常はおとなしい性である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡くよ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫