・・・ 自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥がちちと鳴く。折々は千代千代とも鳴く。外では木枯が吹いていた。 夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺の縁へ懸けて、小い嘴に受けた一雫を大事そうに、仰向・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・私はその頃ちょうど小立野の下に住んでいた。夕方招かれた時刻の少し前に、家を出て、坂を上り、ユンケル氏の宅へ行ったのである。然るにどうしたことか、ユンケル氏の宅から少し隔った、今は名を忘れたが、何でもエスで始まった名の女の宣教師の宅へ入ってし・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・時は蒸し暑くて、埃っぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。 そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場の事・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、今一人の名山という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去らないで、夕方までおいでなさいよ」「僕か。僕はいかん。なア君」「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」「よござんすよ、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・何日やら蒸暑い日の夕方に、雨が降って来た時に貴方と二人でこの窓の処に立って濡れた樹々の梢から来る薫を聞いた事があります。ああ、何もかも皆な過ぎ去ってしまいました。そして皆な儚い恋の小さい奥城の中に埋まってしまいました。しかしその埋まったもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・国の犬と生れ変った、ところが信州は山国で肴などという者はないので、この犬は姨捨山へ往て、山に捨てられたのを喰うて生きて居るというような浅ましい境涯であった、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬・・・ 正岡子規 「犬」
・・・明后日までにすっかり決まるのだ。夕方父が帰って炉ばたに居たからぼくは思い切って父にもう一度学校の事情を云った。 すると父が母もまだ伊勢詣りさえしないのだし祖母だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年死ぬまでに善光寺・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・そこで二人目の子供を産んで半月立った或る夕方、茶の間に坐っていた女がいきなり亭主におこりつけた。「いやな人! 何故其那に蓮の花なんぞ買いこんで来たんだよ、縁起がわるい!」 亭主は働きのない、蒼い輓い顔をした小男であった。「――俺・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・二十六日の夕方には、下山して橋本にいたのを人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。 松坂の目代にこの顛末を聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑を挾むものは、主従三人・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・帝国ホテルが近いから夕方にでもなれば華やかに装った富豪の妻や娘もそれに混じるであろう。公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは致し方がないが、私利をはかるために、またはホテルで踊るために、自動車を駆るものに対しては、父は何を感ずるであろう・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫