・・・ 二人が立っていたのは山際だった。 交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・名を問えば櫛挽の原という。夕日さす景色も淋し松たてる岡部の里と、為相の詠めるあたりもこの原つづきなり。よっておもうに、岡部の里をよめる歌には松をよめるが多きようなり。深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣にいたりて汽車を棄て、人力車を走らせて西吉見・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・背から受ける夕日に、鶴尖やスコップをかついでいる姿が前の方に長く影をひいた。ちょうど飯場へつく山を一つ廻りかけた時、後から馬の蹄の音が聞えた。捕かまった、皆そう思い立ち止まって、振り返ってみた。源吉だった。 源吉はズブ濡れの身体をすっか・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は父の健康を祈るかのように、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ与えるよ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・きらきらした夕日の中に、いつまでも立って見ていました。 男の子は、息をもやすめないで、どんどん走ってかえりました。しかし道がずいぶんとおいのでお家へついたときには、もうすっかり暗くなっていました。 じぶんのお家の窓からは、ランプのあ・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・またそこに死んでいるむすめをなつかしそうに打ち見やる、大きなやさしい母らしい目もありまして、その眼中にはすき通るような松やにの涙が宿って、夕日の光をうけて金剛石のようにきらきら光っていました。「そこにいるお嬢さんはねむっていらっしゃるの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・牛乳を三杯のんで、約束の午後二時はとっくに過ぎ、四時ちかくなって、その飲食店の硝子戸が夕日に薄赤く染まりかけて来たころ、がらがらがらとあの恐ろしい大音響がして、一個の男が、弾丸のように飛んで来た。「や。しっけい、しっけい。煙草あるかい?・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・傾く夕日の空から、淋しい風が吹き渡ると、落葉が、美しい美しい涙のようにふり注ぐ。 私は、森の中を縫う、荒れ果てた小径を、あてもなく彷徨い歩く。私と並んで、マリアナ・ミハイロウナが歩いている。 二人は黙って歩いている。しかし、二人の胸・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・家の中はもう真暗になっているが、戸外にはまだ斜にうつろう冬の夕日が残っているに違いない。ああ、三味線の音色。何という果敢い、消えも入りたき哀れを催させるのであろう。かつてそれほどに、まだ自己を知らなかった得意の時分に、先生は長たらしい小説を・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫