・・・現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ ……陳は卓子に倚りかかりながら、レエスの窓掛けを洩れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字は、房子のイニシアルではないらしい。「これは?」 新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥の前に佇んだまま、卓子・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽かにする夕明りの中に、薄甘い匂を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本とは思われない、不可思議な魅力を添えるようだった。 オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径を歩きながら、ぼんやり追憶に耽って・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・ 初夏の夕明りは軒先に垂れた葉桜の枝に漂っている。点々と桜の実をこぼした庭の砂地にも漂っている。保吉のセルの膝の上に載った一枚の十円札にも漂っている。彼はその夕明りの中にしみじみこの折目のついた十円札へ目を落した。鼠色の唐艸や十六菊の中・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・これはちょうど榕樹の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後を遮られたせいか、紅染めの単衣を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優しい会釈を返されてから、「あれが少将の北の方じゃぞ。」と、小声に教えて下さ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱い出しました。朝に北海に遊び、暮には蒼梧。袖裏の青蛇、胆気粗なり。・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
出典:青空文庫