・・・塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ポプラ。夕陽。サンタ・マリヤ。「つかれた?」「ああ。」 これが人の世のくらし。まちがいなし。七日。 言わんか、「死屍に鞭打つ。」言わんか、「窮鳥を圧殺す。」八日。 かりそめの、人のなさけの身にしみて、まな・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ 夕方内海に面した浜辺に出て、静かな江の水に映じた夕陽の名残の消えるともなく消えてゆくのを眺めていると急に家が恋しくなって困ることがあった。たった三里くらいの彼方のわが家も、こうした入江で距てられていると、ひどく遠いところのように思われ・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・遠山の碧い色や夕陽の色も、一部はこれで説明される。煙草の煙を暗い背景にあてて見た時に、青味を帯びて見えるのも同様な理由によると考えられる。 このように、光の色を遮り分ける作用は、塵の粒が光の波の長さに対して、あまり大きくなればもう感じら・・・ 寺田寅彦 「塵埃と光」
・・・日が暮れかかって、平野の果てに入りかかった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた。さびしい野道を牛車に牧草を積んだ農夫がただ一人ゆるゆる家路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘われた。カールスルーエからはもうすっかり暗くなって、月・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二階の絃歌を騒がしがりし夕、夕陽の中に富士足柄を望みし折の嬉しさなど思い出してはあの家こそなど見廻すうちにこゝも後になり、大磯にてはまた乗客増す。海水浴がえりの女の群の一様に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊びをするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音、樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭・・・ 永井荷風 「狐」
・・・孟宗竹の生茂った藪の奥に晩秋の夕陽の烈しくさし込み、小鳥の声の何やら物急しく聞きなされる薄暮の心持は、何に譬えよう。 深夜天井裏を鼠の走り廻るおそろしい物音に驚かされ、立って窓の戸を明けると、外は昼のような月夜で、庭の上には樹の影が濃く・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・唖々子は既に形容枯槁して一カ月前に見た時とは別人のようになっていたが、しかし談話はなお平生と変りがなかったので、夏の夕陽の枕元にさし込んで来る頃まで倶に旧事を談じ合った。内子はわれわれの談話の奇怪に渉るのを知ってか後堂にかくれて姿を見せない・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・この黄味の強い赤い夕陽の光に照りつけられて、見渡す人家、堀割、石垣、凡ての物の側面は、その角度を鋭く鮮明にしてはいたが、しかし日本の空気の是非なさは遠近を区別すべき些少の濃淡をもつけないので、堀割の眺望はさながら旧式の芝居の平い書割としか思・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫