・・・ 来路を顧ると、大島町から砂町へつづく工場の建物と、人家の屋根とは、堤防と夕靄とに隠され、唯林立する煙突ばかりが、瓦斯タンクと共に、今しも燦爛として燃え立つ夕陽の空高く、怪異なる暮雲を背景にして、見渡す薄暮の全景に悲壮の気味を帯びさせて・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・「巨人は云う、老牛の夕陽に吼ゆるが如き声にて云う。幻影の盾を南方の豎子に付与す、珍重に護持せよと。われ盾を翳してその所以を問うに黙して答えず。強いて聞くとき、彼両手を揚げて北の空を指して曰く。ワルハラの国オジンの座に近く、火に溶けぬ黒鉄を、・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・(独窓の傍に座しおる。夕陽夕陽の照す濡った空気に包まれて山々が輝いている。棚引いている白雲は、上の方に黄金色の縁を取って、その影は灰色に見えている。昔の画家が聖母を乗せる雲をあんな風にえがいたものだ。山の裾には雲の青い影が印せられている。山・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・僕は却ってたんぽぽの毛のほうを好きだ。夕陽になんか照らされたらいくら立派だか知れない。今日の実習は陸稲播きで面白かった。みんなで二うねずつやるのだ。ぼくは杭を借りて来て定規をあてて播いた。種子が間隔を正しくまっすぐになった時はうれしかっ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれ・・・ 宮沢賢治 「鹿踊りのはじまり」
・・・ 野宿第二夜わが親愛な楢ノ木大学士は例の長い外套を着て夕陽をせ中に一杯浴びてすっかりくたびれたらしく度々空気に噛みつくような大きな欠伸をやりながら平らな熊出街道をすたすた歩いて行ったのだ。・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ もう朝夕は霜がおりて末枯れかかったとある叢の中に、夕陽を斜にうけて、金の輪でも落ちているように光るものがあった。そばへよって見て、私の胸はきつく引しぼられた。 それは一ツの銃口であった。生きながら姿で埋められた一人の兵卒の銃口が叢・・・ 宮本百合子 「金色の口」
・・・特に西空はたっぷり夕陽の名残が輝いて、ひらいた地平線の彼方に乾草小屋のような一つの家屋の屋根と、断れ断れな重い雲の縁とを照し出していた。櫟の金茶色の並木は暖い反射を燦かしたが、下の小さい流れの水はもう眠く薄らつめたく鈍った。野末の彼方此方か・・・ 宮本百合子 「白い翼」
・・・そこはひろい池で、赤い夕陽がさしている。向うの黒い森も池の水の面も、そこに浮んでいる一つのボートも、気味わるく赤い斜光に照らされて凝っとしている中に、何かが立っている。青白いような顔半分がこっちに見えるのだけれど、そのほかのところは朦朧とし・・・ 宮本百合子 「本棚」
出典:青空文庫