・・・ 豆洋燈つけて戸外に出れば寒さ骨に沁むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら粟だつを覚えき。山黒く海暗し。火影及ぶかぎりは雪片きらめきて降つるが見ゆ。地は堅く氷れり。この時若き男二人もの語りつつ城下の方より来しが、燈持ちて・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・この詩人の身うちには年わかき血温かく環りて、冬の夜寒も物の数ならず、何事も楽しくかつ悲しく、悲しくかつ楽し、自ら詩作り、自ら歌い、自ら泣きて楽しめり。 この夕は空高く晴れて星の光もひときわ鮮やかなればにや、夜に入りてもややしばらくは流れ・・・ 国木田独歩 「星」
・・・梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭針のごとし」二月八日――「梅咲きぬ。月よ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ひしひしと夜寒が身に沁みた。チンネフ君はベットに這入ってから永い間ゴソゴソ音を立てて動いていたが、それがどうしているのだか、異国人の自分にはどうしても想像が出来なかった。 翌日はレエゲンシタインの古城を見に行った。ただ一塊りの大きな岩山・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・には行燈や糸車の幻影がいつでも伴なっており、また必ず夜寒のえんまこおろぎの声が伴奏になっているから妙である。 おはぐろ筆というものも近ごろはめったに見られなくなった過去の夢の国の一景物である。白い柔らかい鶏の羽毛を拇指の頭ぐらいの大きさ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ だまされてわるい宿とる夜寒かな つぐの日まだき起き出でつ。板屋根の上の滴るばかりに沾いたるは昨夜の雲のやどりにやあらん。よもすがら雨と聞きしも筧の音、谷川の響なりしものをとはや山深き心地ぞすなる。 きょうは一天晴れ渡りて滝・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・水の粉やあるじかしこき後家の君尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜柚の花や能酒蔵す塀の内手燭して善き蒲団出す夜寒かな緑子の頭巾眉深きいとほしみ真結びの足袋はしたなき給仕かな宿かへて火燵嬉しき在処 後の形容詞を用・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
めっきり夜寒になった。 かなり長い廊下を素足で歩きにくくなった。 昼ま、出して置いた六六鉢の西洋葵を入れずに雨戸をしめた事を思い出した。 たった五六本ほかなく、それも黄ない葉が多くなって居るのを今夜中つめたい中・・・ 宮本百合子 「夜寒」
・・・ まだ春も夜寒な頃、十時過ぎて或る印刷所の使が玄関に来た。見ると、一匹の犬が、その使の若者と共に、三和土のところに坐っている。「まあ犬をつれて来たの?」「いいえ。どっかの犬がついて来て離れないんです」 使は程なく帰ったが、そ・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・ゆうべ一しょに泊る筈の小金奉行が病気引をしたので、寂しい夜寒を一人で凌いだのである。傍には骨の太い、がっしりした行燈がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色の火が、黎明の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠にしまってあ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫