・・・それを佐伯は哀しいものに思い、そんな風に毎夜おそく帰って来る自分がまるで夜店出しの空の弁当箱に残っている梅干の食滓のように感じられて、情ないのだ。なぜもっと早く、いっそ明るいうちに帰って来ないのかと、骨がくずれるような後悔に足をさらわれてし・・・ 織田作之助 「道」
・・・それでも、その通りの両側には夜店が五、六軒出ていた。そしてその夜店と夜店の間々に雪が降っているので立ち寄るものはすくなかった。が二、三カ所人集りがあった。その輪のどれからか八木節の「アッア――ア――」と尻上りに勘高くひびく唄が太鼓といっしょ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・知らない町の燈火は夜見世でもあるように幌の外にかがやいた。俥に近く通り過ぎる人の影もあった。おげんは何がなしに愉快な、酔うような心持になって来た。弟も弟の子供達も自分を待ちうけていてくれるように思われて来た。昂奮のあまり、おげんは俥の上で楽・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮べたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。 猿簑は、凡兆のひとり舞台・・・ 太宰治 「天狗」
・・・ あの、わがまま娘が、とうとう男狂いをはじめた、と髪結さんのところから噂が立ちはじめたのは、ことしの葉桜のころで、なでしこの花や、あやめの花が縁日の夜店に出はじめて、けれども、あのころは、ほんとうに楽しゅうございました。水野さんは、日が・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・ 夏の頃、神田の夜店の中に交じってコリント台を並べて客を待っているおばさんやおじさんが数え切れないほどあった。こわい顔のおじさんや、浮かぬ顔をした小僧さんのところよりはやはり愛嬌のいいおばさんの台にお客が多くついているようである。鉄球を・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・毘沙門かなんかの縁日にはI商店の格子戸の前に夜店が並んだ。帳場で番頭や手代や、それからむすこのSちゃんといっしょに寄り集まっていろいろの遊戯や話をした。年の若い店員の間には文学熱が盛んで当時ほとんど唯一であったかと思われる青年文学雑誌「文庫・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 五 紙獅子 銀座や新宿の夜店で、薄紙をはり合わせて作った角張ったお獅子を、卓上のセルロイド製スクリーンの前に置き、少しはなれた所から団扇で風を送って乱舞させる、という、そういう玩具を売っているのである。これは物理的・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・ 当時は町の夜店に「のぞきからくり」がまだ幅をきかせていた時代である。小栗判官、頼光の大江山鬼退治、阿波の鳴戸、三荘太夫の鋸引き、そういったようなものの陰惨にグロテスクな映画がおびえた空想の闇に浮き上がり、しゃがれ声をふりしぼるからくり・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・ 銀座を歩いて夜店をひやかしているうちに冬子が「どうして早く銀座へ行かないの」と何遍も聞いたそうである。ここが銀座だと説明しても分らなかった。どうも銀座というのはアイスクリームのある家の事と思っていたらしいという事である。宅の門までは元・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
出典:青空文庫