・・・抽斎の子は飛蝶と名乗り寄席の高座に上って身振声色をつかい、また大川に舟を浮べて影絵芝居を演じた。わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座をつとめ、毎月師匠の持席の変るごとに、引幕を萌黄の大風呂敷に包んで背負って歩いた。・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ 私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月を大川端の水練場に送った事である。 自分は今日になっても大川の流のどの辺が最も浅くどの辺が最も深く、そして上汐下汐の潮流がどの辺において最も・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ この静な道を行くこと一、二町、すぐさま万年橋をわたると、河岸の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくし・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・清元浄瑠璃の文句にまた一しきり降る雨に仲を結ぶの神鳴や互にいだき大川の深き契ぞかわしけるとは、その名も夕立と皆人の知るところ。常磐津浄瑠璃に二代目治助が作とやら鉢の木を夕立の雨やどりにもじりたるものありと知れど未その曲をきく折なきを憾みとせ・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、舟なくば雪見がへりのころぶまで舟足を借りておちつく雪見かな その頃、何や彼や書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ ファシズムというと、わたしたちはすぐ戦争中のままの形で超国家的な大川周明の理論や、憲兵の横暴や、軍部、検事局その他人民を抑圧した天皇制の機構全体を頭にうかべて、なんとなしその全体に体当りで抵抗するのがファシズムへの抵抗という感じをもっ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・そのすぐあとのけさ大川周明ほか十九名が自由になったと知らされている。そのなかの一人である安倍源基は特高課長、警視総監、内務大臣と出世したが、その立身の一段一段は小林多喜二の血に染められ岩田義道の命をふみ台にしている。天羽英二は情報局長として・・・ 宮本百合子 「事実にたって」
・・・ すぐ舟に家族のものと荷もつだけをのせ、大川に出た。ところが越中島の糧秣廠がやけ両国の方がやけ、被服廠あとがやけ四方火につつまれ川の真中で、立往生をした。男と云えば、船頭と自分と二人ぎりなので五つの子供まで、着物で火を消す役につき、二歳・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・コクトオやスタンバアグが大川端の待合で、或る気分を日本的と陶酔する姿を、苦しい笑いでこちらから見物せざるを得ないではないか。 日本の芸術家が、いつしか外国人が目して日本的と称する範囲の中に一九三〇年代の複雑な日本を単純化して、外来客に見・・・ 宮本百合子 「日本の秋色」
・・・ですから、さっき一番始めに申しましたように安倍源基が市民生活の中へまぎれ込んで来るとか、にせ気違いかなんか知りませんが、東條の頭を叩いて松沢に行っていたファシズムのイデオローグである大川周明が全治したとかいうとき私どもははっきりとファシズム・・・ 宮本百合子 「平和運動と文学者」
出典:青空文庫